真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

Entries

体験にすがりたい私

「真剣に聞かねばなりません」
心がけとしては尊いことでその通りです。こちらの「心がけとしては」、当然のことと言えるでしょう。

この道を通った人なら、多少なりとも自分なりに、聞かずにはいられない真剣な心になったことがあるものですから、「真剣に聞かねば助からん」「真剣になればこそ」と思わず言いたくなる気持ちもわかるのです。
でもそれは、どれだけ真剣だったかと言っても、「自分なりの」真剣さ。どこまでも相対的なものです。

ひょいと「あの時あんなに真剣になったんだもの(だから助かった)」という心が出そうになるのですが、それもやっぱり、捨てものです。
あの時ああなったらから、という自分の過去の体験をたのみにしているからです。

「自分が」どうだった、ああなったから、今こうだから・・・こちら側の間に合わない体験をたのむ心は全部捨てて、向こう側からの、なもあみだぶつ、ひとつです。

真剣になれないことに逃げる

自分の自覚があろうとなかろうと
いつ後生になるかわからない
まさに今
「私が」真剣になれるのを待つ時間はないのです

真剣に聴きましょうと言って、
今真剣になれない人は
どうしますか
どうなりますか

たとえそう脅されたところで
真剣になれますか、なれましたか
それでその目的とやらは達せられましたか

「真剣になったら」

後生は待ったなし。
そんな時間もないんです





崩されてこそ本物

自分でこしらえたものは、必ず、崩れるもの。
だから、たよりにならない。

思えば、「こうしていればこそ」と思っていた「道」が「その道ではなかった」と壊れたときから、本当の道が開けたような気がします。

なむあみだぶつと聞かせていただくことは、毎度壊されることと言えるかも知れません。

私の側で、私がこしらえようとするものが、何もたよりにならなかったよ、ならないよと壊されて、その間に合わないものを、その都度その都度ずっと捨てさせられていく。ずーっと捨てていかされるから、何も持たない。間に合わないものを持っていても、何もならないから。

で、あみだ様です。間に合ってよかったね、の阿弥陀様。
だから、壊されなかったら、本物じゃないと思うのです。





一生安心できないところに、安心がある

目に見えるものでしか、安心できないのが私だ。

でも、安心できたところで、一時のもの。

安心できたら、安心できると思っているから、安心できない。それが私。

そんな安心できない私のところに、安心できないからこその、信心。私にはない、真(まこと)の心。

しっかりしたというものを掴んだら、それは危ない。

油断なく、聞かせていただかねば。

交わることはない

薄紙一枚じゃない。交わることのない、双曲線だから。

和上はおっしゃいました。

あと一つ、ここがわかったら、ここが突き破れたら、と思っているけれど、そうじゃない。

未来と現在は、一致することはない。

「明日」は、明日になった時点で、「今日」だ。

どうにかなった姿と、そのままの姿が、交わることは、ない。

自分では死ねない

「薄紙一枚」という表現が気になって、探してみた。

ある和上のお話が出てきた。

「薄紙一枚のところがわかりません」という人に対するお話。

検索してみてください。

私の、苦手な(親しみを込めて)和上のお話。

どうして苦手なのかというと、すごすぎて、辛い。

濁流のように、押し寄せてくる、ありがたみの凄み。

「ずーっと自己否定を重ねて、最後まで残るのが抜きがたい自力ではありませんか」

「私が私の三心を否定するのではなくて、阿弥陀さまが私の三心を否定するというのが」

読んでいると、聞いていると、すごく泣けてくるから、辛い。

ありがたつらい。


薄紙一枚、破ろうと思っていると破れない

自分の心を思い出す度、不思議でならないことがある。

「それは、他人に判別できない、仏様と、自分にしかわからないことだということはわかる」そう思っていたし、実際そう書いていた。

人からそう言われたから、ではなくて、自分の実感として、理解として、事実として、わかるという感覚だった。いまから思うと、どうしてそんなことがわかっていたのか・・と思う。

そうなると、「じゃあ、自分にはわかるというのは、どういうことなのか」となる。
「自分にはっきりわかるというのは、どうなったことなのか」
別の言い方をすれば、「どうわかればいいのか」。
とどのつまり、「どうなったらいいのか」である。
疑問はただこの一つだけということになる。

こういう心になるということは、有難いことなのだ。
だが、それだけに、この心がわかる人も有り難かった。
まさかのタイミングで、遭うべくして、この心をわかってくれる人に出逢った。
その恩師は言った。
「何もない」と。

何もない
そのとおりだった。
「自分では」どうにもならないものを、「自分で」どうにかできるはずもなかった。
どうにもならないのだから、どうなったらもくそもない。
何もない。自分の側には。

ただ、仰ぐだけなのだ。








崩れないものとは

何があっても崩れないとか聞きますと、たいてい、がっちり、しっかりしたものがあって、微動だにしない堅固で強固なものがあると思ってしまいますね。

確かに、微動だにしない(?いや、激しく動き働いてくださってますが‥、まあ比喩表現として)おはたらきがあるとして、しかしながら、「こちら側では」「何もこしらえない」から、崩れようもないのです。

むしろ、こちら側で、しっかりしたものを、こしらえようと、掴もうとする心を─自力─、毎日、毎日、瞬間、瞬間、崩してもらっている、そういうおはたらきが、有り難いのです。

認められなくても

人の根源的な欲求の中に、承認欲求というものがあります。

私が思うに、一つは、認められてこそ自分の存在意義、つまりは生き甲斐やアイデンティティーを確かめられるというもの、単純に言えば、褒められたリ、ありがとうと言われると嬉しいというような気持ちです。

もう一つは、他人から認められてこそ安心できるというような気持ちです。
自分だけでは確信が持てないから、他人から認められて、それも大勢であればあるほど、安心できるというものです。
いわゆる、社会的証明、というものでしょう。

いずれも、自分の中の、不安の裏返しなのですね。

人生は、こういう不安との闘いなのだと思います。

その中に合って、人から認められなくても安心できる、人から認められる必要もない、安心、そんなものがあるんでしょうか。
あったんですね。

こんな世界が本当に。

何もない

どうなったのが、助かったのか。
南無阿弥陀仏の
ほか
に、何もない。

助かった証拠は。
南無阿弥陀仏の外に、何もない。

助かる証拠は。
南無阿弥陀仏の外に、何もない。

南無阿弥陀仏の外のものを、つかみたい、すがりたいの心を捨てて、南無阿弥陀仏の海に飛び込む覚悟、一度きり。
一度できたら、あとはいつでもできるから、ずっとしていくだけ。

Menu

プロフィール

hiromi

Author:hiromi
hiromiです。

日々の喜びの中で
感じたことを綴っていきます。

メールは上の「Menu_s」からフォームを開いてください。

CalendArchive

最新記事

Link

*~*~*~*~*~*~*~*~*
当ウェブページはリンクフリーです。 リンクしてくださりありがとうございます。

全記事表示リンク

メールフォーム

メールはこちらからでもどうぞ ご感想、ご質問、雑談等、お気軽にお寄せください。

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム

FC2カウンター

最新トラックバック

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード