真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

Archive [2010年05月 ] 記事一覧

無別道故

自分の人生です。人の後生ではないんです。こればかりは人に代わってもらうことも、人に責任をとってもらうこともできません。真実がここにしかない、誰々しかいない…無量光、無辺光のお力ですから、そんなことはないと思ったのでした。・・・光に向かって生きるとは如来さまを仰いで生きるということでした。遥か昔から私を想い私を願い真実の心を懸け命を賭けてくださった阿弥陀さまを。私を救い捨てられないことに疑いのない南...

許されて

以前の私なら、すぐに人と比べて何かと卑屈になったりしたものだけれど、今はそういうこともないのです。これ以上望むものもないという安心からなのか、これ以上失うものも何もないというところからの出発だったからでしょうか。人は人。上下とか優劣とかではなくて、それぞれがそれぞれのまま救われ慶べる世界。みんな違っていいんだよ、というところが同じ。阿弥陀さまから許されて、如来の子ですよというものが私に流れてくださ...

信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり

刹那の快楽を求めるだけのしょうもないのが私の心だと思いますが、それでも人間は先のことを考えるから先に楽しみがあると、今から楽しくなるものですね。だけどお浄土は見えないし実感もできないのに…と思うと、こればかりはやっぱり阿弥陀さまのみこころとしか思えないですね。私には浄土を願う心なんてないと思いますのに。「どうか疑いなく我が国に生まれられると思って念仏しておくれ…」南無阿弥陀仏となって来てくださいまし...

知らないこと

仏教に関しても、浄土真宗のご法義についても知らないことだらけです。実感します。一文不知の尼入道なりともとは、本当のことでした。ただ本願まこと、私を助けるに間違いがないと知らされただけで、それでも眺める景色の素晴らしさは劣ることはないのです…かたじけないことです。本当にお恥ずかしい申し訳ないと思いながら、それでも無知も障りにならない関係ない、どんな者でもそのまま救うの大悲大智なればこその、慶びの世界...

正信偈

最近改めてどういうことが書かれてあるのか知りたくなって、解説書を紐解いたりしています。お偈の息づかいが益々感じられるようです。何も知らなかったものですから、余計に…。もう少しきちんと意味を知りたいと思わずにいられなくなりました。すこしずつですがやっていきたいと思います。ただ自分で慶ばせていただけるだけですが、それが有難いです。南無阿弥陀仏...

拍手のこと

いつも読んでくださりありがとうございます。ところでブログの終わりに「拍手」というアイコンがあって、気付くといつもすこし数字になっています。何となくいつも同じ方がしてくださっているのかなあと思います。いつもありがとうございます。読んでくださるだけで嬉しいです。加えて、拍手で応援してくださるお気持ち、有難く受け取らせていただきますということをお伝えしたくて書かせていただきました。...

趣味の読書

以前に取り寄せた本をまた読み返したりすると、また前とは違った感動や面白さがありますね。もうよくわからない文章を、無理やり自分の中で他の言葉ももってきて整合させるようなこと(無意識にやるようになっていました)もしなくていいからなのでしょうか、本を読むのが楽しいです。どうせ難しい文章を読むにしても、言葉の使い方が曖昧な為に意味不明になってしまっているものはいくらこちらが努力してもますますわからなくなるよ...

あれ、これ

これが、とか、あれが、というのは、ないんです。「私が」(人も)こうだから、ああだから、救われているとかいないとか後から付け足してもいけないのだと思います。だから、私が、ああしてこうして、ああなってこうなって、こうだったから、ああだったから、もないです。私の変化が必要でも証拠でもないし、ご本願のお力のみによることなので、私には言えないという感じです。南無阿弥陀仏だけです。証拠と言うとしたら。有難いこと...

今ということ

今私をお救いになることのできないような阿弥陀さまでしょうか。阿弥陀さまのお力で足りないということがありますでしょうか。願行具足の南無阿弥陀仏は既に成就なされ十方に満ち満ちておられます。今の私が救われないということはなかったのです。願力無窮です。いや受け取れない私が悪いのだと言って、受け取れるような善い者になってからではないかとまた計らうんですね。受け取った姿を、信心というものを自分の中で先につくっ...

一向

きのう書いたことについてですが、「向かう」ということが間違いということではないんです。もちろん。一向専念無量寿仏、阿弥陀さまに向かって生きております。時間的なことと、対象をごっちゃにしてはいけないということです。将来の阿弥陀さま、将来のお救いに向かうというのではなくて、今、一向専念のおはたらきということです。自分が時間をかけて向かっていくということではないということです。阿弥陀さまが遠い過去から今...

今私へ

何かにつけて「向かう」と言っていました。「進む」と聞いていました。自分から未来の何かに向かっていくというのですから今にならないのです。やっぱり向きが逆なので、自分から向かっていくのだとしていたら、どこどこまで行ってもその先には「目指しているはず」のものはなかったのです。この先にある、とするのを止めて、この道ではない、とお示しくださっているものを捨てて、すでに選んでくださった正信念仏の道と定まるので...

学ぶ慶び

真宗の学問は、真宗には学問が必要でないということを学ぶ、とありました。学仏大悲心ということです。確かにそうだなあと思います。私は他の方と比べてもとても学問をしていると言えるようなものではありませんが、聖典のお言葉に触れても慶びが広がり、ああそういう意味なんですね…と感動するばかりです。何につけても学びとなっていくご縁とさせていただけるのは有難いことだと思います。学べば学ぶほど、学問の要らないことが...

ただ与えられて…失うものはなかった

どなたか忘れてしまったけれど、ある人は言いました。「馬鹿の極致だった」。いわれのない罵りを受けながらも…「自分が一番馬鹿なんだから」と静かに。巷では賢いとか頭がものすごくいい人だと言われているらしいのにも関わらず。「…ああこの人は馬鹿じゃないなあ…いや、私も同じかそれ以上の馬鹿なんだ、馬鹿で生きていこう」と思った。何も畏れることなんてなかったんだ、と思います。間違っていたことを認めたところで、減るも...

抱っこ

5月だというのにきのうも風は強くて、夜も肌寒い程でした。そのせいか娘が体調を崩してしまい一日中ぐずって抱っこで大変でした。でも、こうしてずっと側にいて看病できることに幸せを感じ感謝しています。普段は忘れていても、病気になると健康のありがたみを実感します。今日一日生きることさえ困難な日々を過ごしてみれば、生きてるだけで丸儲けだなと思えるようになりました。命があるということはそれだけで素晴らしいことで...

無知でした

どうしてあんなにも私はあの会の中で何も言えなかったんだろうということを考えてみたりするのですが、どうしてもそこに所属していなければいけないとなったら嫌われてしまったら居づらいので嫌われないようにしていたんだと思います。嫌な思いをしたら、やめたくなる訳でそれは辛さや葛藤を生むのでそういうのは避けたんですね。自分の性格も働いて。仕事なら辞めたいと思えば次の職場を探しますが、そこしかないと思っていたら、...

想われて

音があると集中できないので普段はあまり音楽を聞く習慣がないのですが、歌番組は好きで時々見ています。恋の歌を聴いていて…ずいぶん前に、阿弥陀さまの救いを求める人がまるで阿弥陀さまに恋い焦がれて切ない片思いをしているようだと書かれたものを読んで、その時は共感を覚えたのを思い出しました。私が阿弥陀さまを想うのも念ずるのもお念仏するのも、自分の心で自分がしていると思っていたから…だから想う回数が多いほど、そ...

思い上がり

だから、思い上がりだったなと思うのです。一瞬でも「私のようなものが」と人様と比べたのは、甚だしい思い上がりだったと。極悪最下なのですから、人とは比べようもないということです。自分ではわからない程だから、仏さまがすでにご存知だということです。悪人正機と仰せのとおりです。正真正銘の悪人が、お念仏のほかに何ができるというのかということです。どうしようもない私。けれどもだからこその私への南無阿弥陀仏なので...

我が身一つ

我が身一つ自分ではどうにもならなかった私です。こんな私でも、ではなくて、こんな私だからこそ阿弥陀さまはお救い賜うのでした。まず私が救われねばならなかったのです。極悪最下の私だからです。命いくばくもない私だからです。人様のことは差し置いてでも救われなければならないような私なのです。人様のことを心配している余裕など全くないひどい有り様の私なのです。自分が水に溺れていて今にも沈みそうなのに人のことを心配...

手をだすな

越前の年寄りがよく言ってましたね。 手を出すな、手を出すな、仏の帳場に手を出すな。 昔の冠婚葬祭では、帳場という名の差配人に全てをまかせていたものです。 差配人は絶対権力者ですから、日常のしがらみがどのようであれ共同体の構成員はそれに従ったものです。 これを転意して、阿弥陀如来の救済のはたらきに、被救済者が関与すべきではないという誡めの言葉が「仏の帳場に手を出すな」です。 (林遊様のコメントより)救われ...

観念の遊戯

観念の遊戯…ですか…。…。その言葉を使うなら、観念の遊戯しかできない私を、実地にただ今お救い賜うのが阿弥陀さまであられるのでしょう。私が何を思った知らされたと言ったところで観念の遊戯にしかならないから、阿弥陀さまがまことの心をご回向してくだされるのではありませんか。私に真実の心はありませんし、起こせません。そんな私が往生一定とは、真実である南無阿弥陀仏のほかにありません。なんまんだぶつ…  浄土真宗に...

宇宙

昨日は車で20分くらいのところにあるプラネタリウムに出かけました。下の子も何とか静かにしていられる年齢になって、久しぶりに説明を聞きながら星の世界を楽しみました。いつか…いつも…大きな星空を眺めては自分があまりにもちっぽけな存在に感じられて…人生の目的を果たしたら、自分がこの大宇宙とも肩を並べられるような存在にも感じられるようになれるんじゃないか、なんて思って救いを切望した時もありました……結局、自分...

まかせ

以前に読んだ本に、いろんなお同行やご住職の方が出てきてその方達が話された言葉が書かれている本がありました。よくわかるお話もいまいちわからないお話もあったのですが、お説教については誰々さんのところへ行って聞かれるのがよろしいというお勧めはもちろん出てくるのですが、ご信心のことは「阿弥陀さまに聞け」というような態度だったなあ、というところが印象に残っています。私は知らないわからない。阿弥陀さまがご存知...

願い

ゴールデンウィークで、行楽にお出かけの方も多いのでしょうか。いいお天気続きでよかったですね。我が家は相変わらず主人は決まった交替での仕事なので、休日の子どもパワーに振り回され奮闘する毎日です…それはそれでとても幸せなことで有難く楽しく過ごしています。近くにも珍しいものや名跡、ちょっと足を延ばせば温泉などもありますが、いつでも行けると思うようなところには、行きたいと思わなかったりします。遠くの、いつ...

身をばまるめたる

(4) 一 念声是一といふことしらずと申し候ふとき、仰せに、おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なり とこころうれば、口も心もひとつなり。(100) 一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。弥陀をたのめる人は、南無阿弥陀仏に身をばまるめたることなりと仰せられ候ふと[云々]。いよいよ冥加を存ずべきのよしに候ふ。 (蓮如上人御一代記聞書)いつも称えさせてくださっています。...

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