真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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悲しき愛の救われる道

勉強しなければ、なんて気負うこともなく、ただ嬉しいのと楽しいのとであれこれお聞きしたり讃談させていただいています。

かつては読みなさいと言われてすら、おっくうでできなかった時も長かったのに、いろんな方の書かれたご本などを進んで読ませていただくようになったのは、自分でも考えられない不思議なことと思います。

興味や知りたいことがいろいろ出てきて、時間が追いついていかないのですが、最近ふと考えたのは、聖人さまの善鸞義絶のことです。

関東に起こった混乱の解決のために善鸞を派遣されたのが、かえって混乱をさせる事態となってしまわれた。聖人の名を使って権力者の力をかりて他の門弟たちを排除しようとしたり、親子で秘密の法門をさずかったなどと、そのまどわしぶりは尋常ではなかったのでしょう。とうとう聖人さまは、義絶という、親子の縁を絶つというご自身のお立場を示されることでしか、事態を収拾することができなかったのでしょう。

門徒をまどわした善鸞と、まどわされたご門徒、どちらがかわいそうで哀れむべきなのでしょうか…どちらがどうなんて私に言えるのか…
善鸞への義絶というのは、善鸞に対しても慈悲と言えるのか…ご門徒に対してはどうなるのか…


人間の慈悲の限界…
そういうことだったのか…?とはっとさせられました。梯和上のご本に書かれてあったことは、こういうことだったのではないか…と思い、今もう一度読み返しています。

 人生には、腸の断ち切られるような思いをしながらも断念しなければならないことがあります。人間の愛の手の及ばぬことがあるのです。その人間の愛の悲しい断念を包み、支えているのが阿弥陀仏の大慈大悲の本願でした。人間の手のとどかぬところにこそ、如来の大悲の手は確実にさしのべられているのだと聞くとき、自分の力なさを悲しみながらも、希望と光がさしこんでくるのです。それが如来より与えられた本願の念仏のなかに感じられる豊かに開かれた世界なのです。親鸞聖人は、

  小慈小悲もなき身にて
  有情利益はおもふまじ
  如来の願船いまさずは
  苦海をいかでかわたるべき

と讃詠されました。

 聖人がこの和讃をよまれたのは八十五、六歳のころであったと思います。第二条のところでもふれましたように、八十四歳のときには、断腸の想いをもってわが子善鸞を義絶し、父子の縁を切らねばならなかった悲しい事件がありました。わが子一人を救い切れない自分の無力さが、どんなにつらかったか。「義絶状」のなかに「かなしきことなり」と記された一語には、万感がこもっていました。この事件が聖人に聖道の慈悲の悲しさを思い知らせたといえましょう。小慈小悲さえも行ぜられない愚かな身で、人を済度してやろうというような思い上がったことは思うべきではない。このような浅ましく、申しわけない私を救うて、愛と憎しみを超えた領域にあらしめようと誓願された大悲の本願に身をゆだねて念仏を申すところにのみ、人間の愛の限界を超える大道があるのだといわれるのです。

 仏になるということは、自他をへだてする「私」という小さな殻を破られて、万人と一如に感応しあい、自在に人びとを利益することのできる大慈大悲の身となることです。それはいま、阿弥陀仏がなされている広大な救いのはたらきに参加し、「おもふがごとく衆生を利益する」身になることです。親鸞聖人は、それを還相(還ってくる相)ということばであらわされていました。浄土に生まれさせていただくことを往相(浄土へ生まれて往く相)といい、浄土で仏としてのさとりを開いたものが、煩悩業苦に悩む人々を救うために、ふたたび煩悩のうずまく迷いの世界へ還ってきて、救済活動を行いますから、それを還相といわれたのでした。

 こうして念仏という如来よりたまわった本願の大道に帰入することによってのみ、すえとおらない人間の愛の悲しみと空しさも救われてゆくのです。それゆえにまた、本願の念仏という絶対無限の大悲の道に救いとられた人は、如来の大悲のうながしをうけて有縁の人びとに念仏をすすめ、もろともに如来の大悲の世界に心を開いていくようにと伝道していくようにもなります。「讃阿弥陀仏偈和讃」には、

  仏慧功徳をほめてしめ
  十方の有縁にきかしめん
  信心すでにえんひとは
  つねに仏恩報ずべし

と讃詠し、救われたものは、自分を救いたもうた如来の広大無辺の徳をほめたたえて、一人でも多くの人とその喜びをともにしようと伝道せよといわれています。それは、自分には人を救うような力はまったくないけれども、この力なき私を救いたもうた如来の大悲は、万人をわけへだてなく救いたもうと、讃えていくことはできるはずです。そのように如来を讃えていく念仏の行者をとおして、如来の大悲は、この煩悩の大地のうえに顕現していくのだともいえましょう。そのことを聖人は「信文類」に、
  もしよく展転してあい勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲の行ずる人と名づく。(『注釈版聖典』二六〇頁)
といい、そこに念仏者のまことの生き方のあることをお示しになったのでした。(梯實圓著『聖典セミナー 歎異抄』?悲しき愛の救われる道?より)


ああ、そうでした…
南無阿弥陀仏


*Comment

NoTitle 

ありがたいです。南無阿弥陀仏。
  • posted by ZhengQing 
  • URL 
  • 2010.01/24 23:07分 
  • [Edit]

ZhengQingさん 

はじめまして。
読んでいただきありがとうございます。
南無阿弥陀仏
  • posted by hiromi 
  • URL 
  • 2010.01/25 13:20分 
  • [Edit]

NoTitle 

こちらこそ。法味愛楽のご縁を喜んでいます。
南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と称賛し、南無阿弥陀仏が御恩報謝になると聞かせていただけてありがたいです。
お同行方のブログには、何度か意見を述べたことのある元S会会員ですが、なんとなくZhengQingに変えてみました。これからも南無阿弥陀仏のご縁を楽しみにしています。
  • posted by ZhengQing 
  • URL 
  • 2010.01/25 20:42分 
  • [Edit]

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