真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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西の旅

いろんな方のお話やご本などを通して聞かせていただきたいと思っています。

今日も感動したので、少しご紹介させていただきます。

 地獄も浄土もありはしないというような疑いは脱(お)ちやすい。しかしどれほどのゆきとどいた慈悲でも、このような私が生れられようか。このような者がお助けいただけるのであろうかという疑いが起る。しかしそのことも脱ちると、その次には、信を得たのであればこのようなことはあるまい、信を得ていないから喜べないのではなかろうかと思うようになる。しかし、その垢まで脱ちると、ただただうれしくなる。ご法縁の席で聞く間は、胸もすっきりしたようであるが、わが家へ帰ると曇るという垢もなかなか脱ちがたい。……真宗の信心は無疑である。

 「弥陀に帰するこころの疑いなきを、真実信心とはまうすなり」と仰せられてある。しかしその「帰する」ということにもまぎらわしいものが入る。つまり帰する心のその奥底に、疑心のないのはたまわりものである。
 
 この「無疑」と仰せられることこそが肝要である。「無疑」は、ただ「疑わない」ということではない。われわれの上にも、「ただ疑わない」という場合がある。いかなる者でも助けるとの仰せであるから、このような者をお助けと思い、つい疑うたことはないという人もいる。それはこの「無疑」とはちがう。いよいよ大事がかかってみれば、晴れ難いものは「疑」である。「疑いなく」と仰せられているものは、自分の心をかき廻して、疑いを晴らしにかかるようなものではない。

 いま仏智の不思議を疑うという疑いは、日常眼の前のことを疑うという疑いとは違う。日暮れ時に洗濯物が乾してあるのを見て、びっくりすることがあるが、よく見ればその疑いは無くなる。

 彼の曇鸞大師が「称名憶念すれども、無明なおありて志願をみたさざるもの」と仰せられているのは、わけが判っているけれども、心底から夜の明けたように、志願満足安堵決定心の喜びの起こらないのは、通り一遍の疑いではない。生々世々の迷いの根となった元品の無明という無明の闇が破れかねているのである。だからわが自力心では離れられない。仏智の不思議を信ずる信心は、凡夫の自力の信ではない。如来廻向、如来のお助けのおこころが到りとどいて下されるから、往生はどの大事につゆちりほども疑心はなく、願力の不思議を以て必ず助けて下さることのうれしやと、疑いの心のみじんもないのである。そのこころを「帰するこころのうたがいなき真実信心とはまうすなり」と仰せられるのである。

 わけはみな分るが、いよいよ大事となると、心底から疑いがとれることはなかなか難い。
 それは大事になってみなければ分らない。だから「帰するこころの疑いなき」といまも仰せられるのである。無疑(うたがいなし)とは、疑いのないまこと心をたまわったことである。わが心で疑いが無くなったのではない。如来の疑いのないお心をお与えにあづかったところの無疑心である。…(加茂仰順師『西の旅』より)


もう言葉もありません…
ただ、ただ聞かせていただいて疑い晴れました、としか申し上げられないのです…

南無阿弥陀仏、ただ南無阿弥陀仏です…



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