真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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救われていないと言う中の救い

宗教によってその救いは異なりますから、求めるものが違えば信じる宗教も違うということになっているのだと思いますけれども。

聖人さまが顕かにしてくださった浄土真宗のご法義というのは、やはり特異なものと思います。素晴しいお法だと思います。学問的なことは詳しくない私でも思うことは、

得られるご利益が素晴しいということはもちろんなんですけれども、その手だてが他には有り得ないことだと思うのです。本願力回向ということです。私の力は一切使わないから不要だと言われるのです。確かにそうでなければ助かることのない私ですから、この私にとって救いとはそういうものでなければなりませんでした。

ところが浄土真宗とお聞きはしてみても、自力の計らいしか知らない私です。要らないとか捨てよと言われてもすんなり聞き受けられることは難しいことでした。

一旦こうしていればいいというものを掴んでしまったならば、それでいいのだとしがみついてしまうのです。私もそうでした。「こうして求めていることに間違いない」「励まずに得られるものか、そんなものたいしたものであるはずがない」「この道こそ間違いないと今日も聞かせていただいた」…
…求めよ求めよと言われて、救いを求めていながら救われていないという状態は辛いのです。だからその救いを求めている状態を救いと繋げて、糸を見いだしてそこに掴まっていることで、安心したいのです。わからないものだから、そこまでの道を作ってそこを進んでいることにして、よしとしたい、わかっていることにしたいのです。救われていない中に救いを見いだそうとするのです。人間は弱いのだと思います。

だから説く人は大事なところだけはわかっておられる方でないと…と思います。責任は重いと思います。私のほうもそれを見定めることが必要でした。

愚かで迷って、間違えて、自分の心に騙されて、弱くて、もろくて、頼りなくて、いい加減で、…それでも、そんな者をそのまま助けるとのお慈悲でした。よくぞ…いや、善人様は後回しなのでしょう、お恥ずかしい、申し訳のないことでした。

南無阿弥陀仏

(少しだけにしようと思ったのに長くなってしまいました)



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