真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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通じ合うもの

「この人から聞きたい」
「この人に伝えたい」
聞きたい人と伝えたい人が通じ合って、出会うことがあるんですね。

不思議なことがあるものだなあ…といつも思っているのですが、
そんな時ふと本を読んでいましたらこのように書かれていまして、本当にそのとおりだなと思って、有り難く嬉しくなりました。

 何事によらず、よき師を持つ人は幸せである。「正師を得ざれば、学ばざるにしかず」とさえいわれる。とりわけ、易行道の念仏門にあっては、「よき人の仰せ」が、いかに大切なものか。易行なるがゆえに難信、難信なるがゆえに具眼の明師によらねば、往生の大事は決得しがたいのである。
 しかしながら、その「よき人」にあうことが、また至難でもある。親鸞聖人が、
     善知識にあふことも
       おしふることもまたかたし
       よくきくこともかたければ 
       信じることもなおかたし
と申されているように、極難信の難関を実地に踏破した体験を持ち、そのうえ人をして、よく獲信せしめるほどの具眼の明師というものが、いかに数少ない存在であるか。このことは、よき人を選びうるのは、宿善の人でなくては、不可能であることをも意味している。従って、その宿善の人が、なかなか少ないということでもあろう。宿善の人にして、はじめて、よき人との値遇があるということは、むしろ、その人をこそ宿善の人と名づけられるといってもよい。また、よき人は、その宿善の人を掘り当て、それを育てうる人だといってもよい。善知識と宿善の人との、このような相互関係は、求道上の実際問題として理解する以外にはないが、ともに真宗信が、極難信といわれる内容の一部をなしていると思う。 

増井悟朗 「はじめに」(吾勝常晃著『伊藤先生の言葉』、華光会、1979年)、1-2頁  



善知識だのみにはさんざん嫌な思いや辛い思いをさせられてきたので、自分の師のことを語るのにはついつい慎重になって躊躇してしまってよそでは言いませんが、感謝しきれないほど感謝しています。有名な人でもないし、まだ多くの人から賞賛されているような人ではないけれど、私にとってはかけがえのない恩人です。

「この人こそは…」
分かる人には分かるんですね。

私だけの、よき人。
別に、他の人にとってのよき人でなくってもいいんです。

ありがとうございました。
  

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