真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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自分で信じる宗教

「自分で信じる」という信仰、宗教では、私は救われないと思っていました。

信じなさいと言われても、信じることができないのです。疑いなく信じることができるのなら、そのとき救われるでしょう。だけれども、私には疑いなく信じる心がないのです。「自分で疑いなく信じる」というのは無理なんです。

だから、「信じる」というのは、疑いを抱えたままでいるということです。

「信じなさい」と言われるのは、疑いを否定しつつ見ないように隠して、「間違いないと自分で思い込んで言い聞かせなさい」そして、「間違いないと深く思い込んだ状態になりなさい」、ということにしかならないのです。

だから浄土真宗では、そういう意味での信じなさいとは言われません。ご信心の信じるというのは、阿弥陀さまの心であってそういう「自分で信じる信心」ではないからです。それで、浄土真宗こそ私の救いがあると思ったのでした。

ところが、「救われる為に道がある(あった、ではないです。未来にむかって、あるということです)」というと、これは「信じなさい」と同じことだと思うのです。

「進みなさい」というのが、「信じなさい」ということだからです。「この道の先に救いがあると信じて行きなさい」ということだから。「この道の先に救いがある」と「信じなかったら」道は行けませんから進めません。

「進む」というのは、「この先に救いがあると信じる道」を行くことなんですよね。その道は「自分で信じる信心」を深めていく道なんです。「自分で信じる信心」だったら、「疑いを深めていく信心」でもあるんです。

だから、「救いの為の道のある」宗教では、私は救われなかったし救われることがありません。

浄土真宗の言葉を使ってはいても、その信仰の形や救いの手だてが結局、実際は「自分で信じる」、例えば人や組織やその道を進むことを信じる、という宗教になってしまっていたら、どこどこまでも自分で深く信じることを要求される宗教だから、それでは私は救われることはないなあ…と思います。

そんな私を御存知で見越しての阿弥陀さま。南無阿弥陀仏のお念仏は、私が信じる心ではなくて、阿弥陀さまからの阿弥陀さまの御心なのでした。

なんまんだぶつ、なんまんだぶつ

(「」の多い文章になってしまいました。)

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