真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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私が作った道では往けない

動物園に行きました。今回は比較的朝早くから周ったので、一日かけてじっくりと楽しむことができました。

かつては動物園や人の多いところへいくと、堕地獄の話をよく聞いていたせいか、動物を見れば畜生界に生まれることを思ったり、これだけ多くの人があってもみんな地獄へ堕ちるのだと思ったり人と話したりしていたなど、今から思い返すとちょっとおかしな感覚をふと思い出しました。

おかしな感覚というのは、畜生界や堕地獄が本当かどうかということに関してではなくて、そこに「自分(達)だけは地獄へは決して堕ちないぞ」というような優越感…もっといえば人を見下すような気持ち、そんなものがあって、そこで「求道」といわれていることに自分が耐えるための一つの心の支えであったようにも思うからです。

私が聞いていた団体では、「絶対の幸福にならなければ必ず地獄に堕ちて苦しまなければならないのだ」と言っていました。ならばその時の自分も絶対の幸福を獲たとはなっていなかったのなら、同じく地獄に堕ちていかなければならないということは自分が見下していた「世間の人」と何も変わらないのに、自分やその団体に所属していた周りの人たちはどうしてそんな優越感をもって人を見下していたのかというと、「求めている」ということが、「登っている」というような感覚だったからではないかと思います。

(絶対の幸福の境地)──
                | 
                 ──
                    |      
                     ──   
                        |自分
                         ───
                             |
                              ───(仏法を求めていない人)

どんな形であれ「求めている」私は既に登り始めているのだと。地獄へ堕ちないための、絶対の幸福を獲るための唯一の法を聞いてそこまで行く方法を知ってどこにいるかはわからないけれども、「進んで近づいて」いるのだから違うのだと。求めていくということを自分で進んで近づいていくかのように思って、苦しくても登っていかなければならない、また自分は少しではあっても上り始めているのだからと上に立っていたような気分でいたのでしょう。

実はその「自分こそは登って行っているのだから」という、「求めていったら獲られる」「求めて進んだ先にある」「求めていって○○になったら」etc…の「自分は求めているからの心」がおそろしい地獄種だったのでした。

なんまんだぶつ


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