真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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間違いのないもの

ふと自分を顧みれば怠惰で間違いもする頼りない存在です。自惚れや思い上がりが根底にあって慎もうとはしてもそれが出てしまうのもしばしばです。だから何かしっかりとした間違いのないものに頼りたい、すがりたいというのが私なのだろうなと思います。

人を見るのではなく法に就くのだと言われても、善知識だのみはいけませんと聞いても、知識だのみがどういうことなのかがわからないと自覚もないのかも知れません。救いへの過程のように教えられてそのように思ってむしろいいことだと思っている人もいると感じて驚いたこともありました。

お救いくださるのは阿弥陀さまで、言うまでもなく帰命の相手は阿弥陀さまで、知識の存在や人格や知識の言葉にたよってさえいれば何とか…というのも自力でそれも捨てないと助かりませんでしたが、ではもう南無阿弥陀仏したら知識だのみは卒業で考えなくていいのかといいますと、自分自身はそうではないと思っています。

もちろん助かるために知識をたのもうという心はもうありませんが、目の前に見える人や表現そういうものについ惹かれ就きたくなる私というものがあるからこそ、見えない色も形もない阿弥陀さまをたのむということも難しかったのではないでしょうか。だから善知識といわれる方は自分に帰命するのではないですよということを常々戒められてきたのだと思います。正しく説いている方でさえ、いやまたそうであればこそそこにある素晴しい人と自分が思う人に向かってしまう、自分の信心をその人格を利用して確固たるものにしたいと思う…根底にあるものはきっと「安心したい」「もっとしっかりしたい」という心。そしてその人やものに間違いがないという自分の判断・評価に間違いはないという自分の確信を信じたい心。つかみたいんですね、結局。

それで極端になると「〇〇先生に間違いない」として「先生のいうとおりにしていれば間違いないはずだ」もっといえば「だれか人に何でもかんでも従うべし」「誰か人に有無を言わず従うことが善、考えることも悪」となってしまったら仏さまではなく人を信じようとするのですから実態もどんどん仏教からも浄土真宗からも離れていくことになるのだろうと思います。

間違いのないのは阿弥陀さま・なんまんだぶつしかなくて人間の世界にはありません。私の中にもありません。だから聞かせていただくのは仏さま、なんまんだぶつのお話だということですね。知らないというのも罪でしたから、知らされた以上は自分自身の反省からもこれからも気をつけていきたいですね。

『これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す…』(電光朝露・死出の山路)

なんまんだぶつ


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