真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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真宗流救急車とは

豊島学由師の『親鸞聖人と私』(探求社)を読ませていただいた中から。

 けれども、浄土真宗の絶対他力はこれらとは違います。浄土真宗の他力を現わすたとえ話に、この救急車の話を使うと聞く方で間違うでしょう。なぜ聞き損なうかというと、救急車は「助けてください」と、こちらから一一九番を回さないと来てくれないからです。ダイヤルを回しさえすれば無条件で助けてくださいます。これが機と法とが一体になるということで、杉和上のいわれる全分他力ということであります。
 確かに救う時には条件はついていません。ですから他力です。条件はないけれども「助けて下さい」と手を出さないと助けてくれないのです。

 国木田独歩の「祈らずとも救うてくれる神はないか」といって地団駄踏んだというのは、そこを突いているだけにすごい話です。人間のギリギリの要求です。

 「それでもいい」「それに応えるのが本当の宗教です」という人もおりました。こちらは重病でどうにもならないからと、一一九番を回して必ず助かるかというとそうではありません。回したときにはすでに手遅れというのがあります。救急車の中で息を引取る人もいるのです。
 手遅れになったならば、いくら無条件で救うといってもこれはまだ救う方に力が足らないということに外なりません。それから自覚症状のない病人もいます。祈らずとも救うてくれる神はないかと叫ばない人もいます。だから救う方の力が絶対完全でなければ、一人も漏れず救うということは完成しません。それが如来の願いであります。

 そのためには先手の無条件の救いであることです。他力本願であることはもちろん絶対他力でなければなりません。そのためにどうしたらいいのでしょうか。その「どうしたら救うことが出来るか」ということが、「本願」ということです。「どうしたら助けることが出来るか」ということは、本願の側でいうことなのです。

 それを聞く側で「どうしたら助かりますか」と聞くから間違ってくるのです。「どうしたら助かりますか」と私が心配する前に、如来様の方が先に「どうしたら助けることが出来るか」という本願をお建て下さったのです。本願の完成した証拠が名号ですから、それを聞かしていただくのです。

 さきほど言いました「先手の方に負ける」ということです。こちらが「どうしたら」ではありません。如来様の方が「どうしたら」です。先手なのです。全部先手なのです。

 だから一一九番を回してからではなしに、自覚症状のない私の罪悪生死という病気を先に見抜いて、仏かねてしろしめして喚んで下さっているのが本願成就の名号なのであります。

 同じよぶのでも喚という字を使います。点呼の呼の字を親鸞聖人は使われていません。一体になるという全分他力の呼ぶは距離をもってよぶのです。離れている呼び方です。

 招喚の喚のよぶは、そばに行って手を添えてよぶことです。喚ぶはそばへきて手を添えてよびますから「名をもって物を接したまふ」といわれるのです。
 接しているということはタッチということで、野球でも、一塁から二塁、三塁と進んでホームインすると一点とれるぞと、汗を流して走って来たとき、むこうからボールが飛んで来て「タッチ、アウト」、これが他力の信心なのです。

 「長い間お聞かせいただいたお陰で」といっていると、「一塁、二塁、三塁と走って長らく苦労したお陰で合格点をもらいました」ということになります。ところが長い間聞いて来たのだけれども、如来様の先手の法に「タッチアウト」されてゼロになりました。
 ゼロになるということは無限大に遇うことです。絶対に遇わなければこちらがゼロになりません。だからゼロイコール無限大、そのイコールの点が信心です。

 哲学の田辺元先生が、京大の学生に「学生諸君、哲学を習ったからといって偉そうな顔をするなよ。真宗のお寺へ参って他力本願を聞いているお同行にかかったら歯が立たんぞ」といったというのです。真宗をよく知っている人のことばです。
 ゼロイコール無限大なんて高等数学みたいな理屈をいわなくても、お同行はちゃんと知っています。それを「ワシは知らん、親に聞け」ということばで庄松さんは現わされました。

 善悪正邪、助かるかおちるかという一切のはからいが如来様に全滅されます。タッチアウトですから。妙好人お園さんが臨終間際にいったと伝えられている「長いこと聞いたが一生無駄骨を折っただけです」の言葉の通りであります。なぜかといえば、おちる心配も如来様の仕事、助けるぞのお仕事も如来様の仕事、機法一体であるナンマンダブツであるから絶対他力と申すのであります。

 もし浄土真宗のお救いを救急車にたとえるならば、如来様の救急車は一一九番を回す前に、回す気もない煩悩具足というこの私の病気を先に見抜いて飛んで来て下さっているのです。「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらのためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と、これが真宗流救急車であります。

「我称え我聞くなれど南無阿弥陀 つれていくぞの親のよび声」。それが今私の口から出て下さっているのです。「如来本願顕称名」と聖人は讃えておられるのがそれです。



何と懇ろなお諭しかと思います。
ゼロイコール無限大とは、ゼロは私、それが無限大の阿弥陀さまと一体であると味わわせていただきます。

なんまんだぶつ

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