真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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ひじり名聞

口伝鈔を少し読ませていただきました。

十七条には「一 凡夫として毎事勇猛のふるまひ、みな虚仮たる事。」と題されてあります。梯和上の『聖典セミナー口伝鈔』には、

 

第一七条は、勇猛な修行者のように振る舞って、自らも迷い、人も惑わしている、偽善的な浄土教徒を戒められた一段です。



とありました。

 因果の道理や、無常を深く信じることができるようになりたいと思っていた頃、何が起ころうとも、たとえ愛する人と死別することがあっても、「それは無常なのだから当たり前なのだ」と平然としていられるようになるのだろうか、「深く信じることができるようになる」のであれば、そうなるべきなのではないかと思いながら、それでも親鸞聖人は法然聖人とのお別れのときに子供のように泣きじゃくられたとも聞いて、やっぱりそんな悟りを開いたような境地にになりなさいと言われている訳ではないのでしょうと思ったことを思い出します。

同じく同書から。

 法然聖人は「往生大要鈔」で、至誠心を釈されるとき、

  しかるに人つねに、この至誠心を熾盛心と心えて、勇猛強盛の心をおこすを至誠心と申すは、この釈の心にはたがふなり。文字もかはり、心もかはりたるものを

と言われています。至誠心のことを「熾盛心」と心得違いをしている人がいると言うのです。熾盛とは火が盛んに燃え上がっている状態を表しますから、熾盛心とは、激しく燃え上がる火のような、勇猛な心を奮い起して修行に励むことで、勇猛心とも強盛心とも言い、聖道門の行者が文字通り「いのち」を懸けて修行する様子を表す言葉でした。それがいけないわけではありませんが、『観無量寿経』に説かれた三心(至誠心、深心、回向発願心)のなかの至誠心とは、言葉も違うし、意味も違うと批判されているのです。…


 「よーし、やるぞ!という奮発心を起こして」…そんな心が欲しいと思う、そして起こっているように感じられる時は、満足・安心感がありますよね、私がしっかりしたい、しっかりなれる…これこそ私の願望の最たるものだからではないかと思います。熾盛心に憧れるのだと思います。

だけどそれも人間の、私の欲望であって、そんな心も続かない一時的なものですね。どこまで行っても私にはまことがないのですから。だから、本願の念仏の信心に限っては、私が起こすのではない、私の心の様とは関係がない、阿弥陀さまの御心でした。

なんまんだぶつ

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