真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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「獲信のために」としか思えない心

善を勧めないということは、獲信のために悪をせよということか?

私はこのようなことを聞いたことがありませんので、このように言われる方があるということ自体が信じがたいのですが、(たまたまごく一部の方なんでしょうけれども、)このような考えがあるとしても、

「獲信のために」と言っている時点で間違いですよね。話の前提が間違いなのです。発想が浄土真宗から離れてしまっているのです。

「私が何かをすることによって獲信できるだろう」、「これをしたら獲られる」という心が自力心で、
その「獲信のために」つまり「阿弥陀仏に救われようと思って」という心が自力なのですから、

「獲信のために善をしよう」も
「獲信のために悪をしよう」も

「獲信のために〇〇をしよう」

ということですから全部捨てものです。言い換えれば

「救われるために〇〇をしよう」

という心で自力なのですから、〇〇の中に何を入れても、善を入れようが悪を入れようがそれは雑行ですよね。

だから浄土真宗では

獲信の為に悪をせよとは言われません。
獲信の為に善をせよとも言われません。

自分の善悪の行為を差し向けて取引のように救っていただくのではないのです。ただ阿弥陀さまの本願を疑いなく信受しなさいとお勧めだったんですね。自力を捨てて他力に帰するのです。善も要らず悪も障りにもならないというのは、善をやめて悪をしなさいということではありませんものね。獲信のために善いことや悪いことがあると思う心が邪魔なのです。

「獲信の為に私が何かできると思う心」が自力疑心で捨てなさいと仰せです。私の往生の為に成すべきことは阿弥陀さまがご苦労の末に全部仕上げてくださって、其のなんまんだぶつと受け取らせていただいたら疑いようもありません。捨自帰他が獲信です。

私の知っている範囲の道理で当てはめて、どうしても「獲信のために」と考えたい私の心があるから、信じることが難いのですが、本願はまことです。疑いのない阿弥陀さまの御心は私に今届いてくださいます。

御恩報謝に努めていきたいと思います。

なんまんだぶつ、なんまんだぶつ


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