真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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拠り所は阿弥陀さま

阿弥陀さまからのお救いというものは、私と阿弥陀さまの間のことであって、阿弥陀さまがお救いくださっていることは私にははっきりしているものです。(はっきりしたのが救われたことではないですよ ^^)

人さまのことについては、いずれどなたも帰するところなので、後先はあるものなのでしょうけれども、お味わいをお聞きすればそのとおりだなあと思うこともあれば、違うなあと思うこともありますが、それで信心が違うとかどうかというのは本当のところは私には言えることではないです。

けれども世界は一味なので、仰ることがよくわかるということはあって、それも楽しいものです。だけれども救われたと仰っている人に、あれこれ詮索して本物かどうかを判断する必要がないので、しようとも思いません。そうなんだろうなあと思える人もあるだろうし、私が思えなくても救われておられるかもしれないですし、どちらにしても、私にはどうこう言えることでも、私が往生するために言う必要もないからです。何となくわかるものですし、それで充分なんです。

まして、人のご信心を判断できると思う、さらにはそれを誰から聞いたとかどこで聞いたとかで判断しようとするのは、阿弥陀さまとの私の関係ということがはっきりしておられないのだと思います。あの人からならいいとかあの人からなら違うとか、どこかの会で聞いたのでなかったならその信心は真実だとかそうでないと思うのは、ご信心がその誰かや会に拠ると思っているということですから、それが自力の心です。誰か人と同じ体験をしたらいいとか、会で言われたあんな体験をしたいとか、そのように私が想像して私の心で作ったものがご信心ではなかったのです。

信心の基準が、人や会というのなら、人や会が認定できるということになってしまいます。それこそが阿弥陀さまのご信心を計らう捨てものの心なのでした。
ご信心は阿弥陀さまから賜るもの、間には人も会もなにも介在しません。基準は阿弥陀さまだけ、だから阿弥陀さまだけにおまかせなんです。私がまかせようとするのではなく、お念仏にまかせさせられるんですね。

なんまんだぶつ



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