真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

無疑と不疑

稲城選恵和上の本を読ませていただきました。

……真実の信心は無疑と先哲もいわれている。しかるに無疑と不疑とは同一の如く思われるが異なるようである。不疑の場合は現在今こゝでの場でない場合に用いる。

たとえば明日の天気はテレビでも放送していたから晴天であると疑っていないという。しかし、今日の今の天気を晴天であると「疑っていません」という人はだれもいわない。本願には遇うという言葉を用いられている。『一念多念証文』にも『浄土論』の「観仏本願力、遇无空過者」を釈して
 「遇はまうあふといふ。まうあふとまふすは本願力を信ずるなり。……」
とあり、遇うは我と汝の二者を場とし、現実の今こゝを場とする。それ故、『教行信証』総序の結尾にも
 「遇い難くして今遇うことを得たり。……」
とあり、今こゝは概念思弁の世界を突破して我と汝という二者を場とする。

只今の天気が晴天であるということは天気そのものが晴天であり、ごまかすことの出来得ない事実に面する場合である。これを無疑といわれる。無疑には決定を前提としているのである。しかるに不疑は明日の天気の場合にいわれる。この混同は他力の信心の最も妨害となるものである。名号に向っては今こゝに既に自ら求めるより先に与えられているのである。それ故、蓮如上人の『御文章』四の八にも
 「……衆生仏にならずはわれも正覚ならじとちかひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南无阿弥陀仏なりとこゝろうべし。これすなはちわれらが往生のさだまりたる証拠なり、されば他力の信心獲得すといふもただこの六字のこゝろなりと落居すべきものなり」 
とあり、この文は実如上人が最も注意されている。

それ故、蓮如上人の晩年の歌に、
 「阿弥陀仏 たすけたまへの ほかはみな おもふもいふも まよひなりけり」
 「名号は 如来の御名の 思ひしに わが往生の すがたなりけり」

とあり、たすけたまへは勿論鎮西義の用語であるが、蓮如上人はこの用語を用いて逆の解釈をされているのである。即ち鎮西義ではこの私の側が先行するので正しく請求の義に用いているのである。しかるに蓮師は逆に帰命の和訓──五の十三──とされ、信順無疑の義とされているのである。この場合はたすけたもう法がいかなる先よりもより先に既に与えられているからである。それ故、前の歌には名号は如来の御名と思っていたが、この私のたすかるすがたとある。

 それ故、無疑は我と汝という二者を場とし、今こゝという最も具体的な立場に於ていわれるのである。しかるに不疑は明日の天気に向う場合であるから、思うこともいうことも必要とするのである。この場合は間違いないのは思う側ではなく、天気そのものである。讃岐の庄松同行の帰敬式の時のエピソードにある如く、「オレのことは知らん、アレに聞け」とあるアレに聞けのアレは名号六字のことである。間違いないのは名号そのものであり、間違いないと思っている側ではない。このことを無疑信順といわれる。……
『救済論序説』(永田文昌堂)



 ……しかるに親鸞聖人のいわれる信心せん─信楽─は「疑蓋無雑の故に信楽と名く」とあり、これを先哲は略して無疑といわれている。無疑は決定を前提とし、今日の天気のごとくである。「今曇っている」ということは自らの思いによるものではなく、曇っている事実に面するからである。確信は不疑と同じく明日の天気をいう。明日は間違いなく「天気であると疑っていません」とか「確信している」といわれる。浄土真宗における南无阿弥陀仏の名号は蓮如上人の『御文章』の四の八には

 「…かるがゆへに阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏に成らずはわれも正覚ならじとちかひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこゝろうべし。これすなはちわれらが往生のさだまりたる証拠なり…」

とあり、南无阿弥陀仏は今ここにこの私の往生のさだまりたる─たすかることの心配無用の法─証拠が与えられているといわれている。……

…このような場合は自らの造作の全く介入する余地はなく、ただ間違いのないものは南无阿弥陀仏のほかにはないのである。ここにはたらいているものがらは南无阿弥陀仏の法のほかにはないのである。それ故、他力の信心といわれるのである。他力の信心とはこの私を場としてはたらいているのは南无阿弥陀仏の法の外にはないのである。……
『現代人と浄土真宗─問いと答え─七問答─』(永田文昌堂)



和上様はよくこの天気の譬えでもって無疑と不疑の違いを説明されています。

私の自覚が無いということではなくて、お救いには私の自覚の有無を問題にしない、言う必要がないということですね。

阿弥陀さまが私をお救いくださるという事実に今まさに直面しているということです。

自覚はありますが、私に自覚ができたのが救われた証拠ではないのです。

私の自覚よりも前に、南無阿弥陀仏に遇っているのですから、自覚を確かめる必要も言う必要もない。疑いようもないのです。不思議ですね。

なんまんだぶつ


*Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

Menu

プロフィール

hiromi

Author:hiromi
hiromiです。

日々の喜びの中で
感じたことを綴っていきます。

メールは上の「Menu_s」からフォームを開いてください。

CalendArchive

最新記事

Link

*~*~*~*~*~*~*~*~*
当ウェブページはリンクフリーです。 リンクしてくださりありがとうございます。

全記事表示リンク

メールフォーム

メールはこちらからでもどうぞ ご感想、ご質問、雑談等、お気軽にお寄せください。

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム

FC2カウンター

最新トラックバック

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。