真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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疑心あることなし

「自力の心が出なくなったから救われている」のではないですね。
「自力の心」を「疑い」と言ってもいいのですが、
「疑いの心がなくなった」…微妙な言い方だと思います。「疑わんようになったからいい」これは違います。だから
「疑いの心がで出なくなった(から)」という言い方はやっぱり違うと思います。正確に言おうと思ったら。
「疑いのないという心が私にできた、あるようになった」のではないからです。

「疑いを捨てなさい」とは言われますが、「疑いがなくなったらいい」という言い方はされてないと思います。

「私に〇〇という心が出なくなったから救われているんだ」と言えるのなら、「〇〇という心」という「信後、絶対出ない心がある」ということを認めることになります。そうすると…

言い方の問題だけならいいですが、出なくなる心があると思っていると、「こういう心が出ないのが救われたこと」なんだと、救われた・救われていないの基準が自分の側にあるように思うから、最悪それを人にも当てはめて、「そのように疑えない心になっているのならいいんですよ」と人の安心を判断して認定するかのような間違いをすることになるのではないかなと思います。

和上様などの書かれてあるものを見ても、
「自力心は否定される」「信罪福心が否定されるよりほかない」
という言い方をされています。

「自力心は否定されるよりほかない」…そうですね、しっくりきます。「出なくなる」「出なくなった」と後先の心を眺めるのではないのです。

ネットで見てましたら(便利な時代ですね)
「助かるまいと、弥陀の本願の前にはすべて否定されるのです。小経には舎利弗が叩かれています。つまっても、つまらんでも、六字で否定しつくされるのです。」ともありました。

ご親切に、「お味わいください」とあったので、読ませていただきましたら、また泣けてしまいました。やっぱり加茂和上のお話、表現、好きです。

『実成院仰誓和上』『御安心』(加茂仰順著)より
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-224.html

……私には聞く力はありません。他力のお仕上げの法を聞かせてもらうことです。
永劫かけて沈む私、逃げ場のない本願のお手際のよさをよろこぶばかりです。
 後に履善和上は、これを詩にあらわしていられます。
「久しく妄心に向かって信心を問う 断絃を撥して清音を責むる如し 何ぞ知らん微妙梵音の響 劉亮として物を悟さしむ 遠且つ深」と。

 聞くうちにはそういうお慈悲かいなと目が覚めるであろうと思っていた私でした。
何ぞ知らん微妙梵音の響で、摂取不捨と変えてしもうて下されます。自分の勝手聞きではありません。
他で聞かせてもらうなら、聞きました、頂きましたというものが残るものではありません。
領解をたのむのではない。弥陀をたのむのであります。
一から十まで、南無の二字のご威徳でありました。安らかな世界へ安住するは、ひとえに法体成就のご威徳でありました。

 地獄一定の私を助けてやるでない。なぜなら、地獄一定といっても私には堕ちる気はないのです。
地獄といっても口だけです。ねじのかからん機とはこの私のことです。破れ常前とは私のことです。
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫であり、出離の縁のない私です。
とかくこういうあさましい者を助けて下さると言うておりますが、私があさましいと問題にした者が助かるのではない。
私がつまらんからお助けではない。あさましいからお助けではない。
助かろうと、助かるまいと、弥陀の本願の前にはすべて否定されるのです。
小経には舎利弗が叩かれています。つまっても、つまらんでも、六字で否定しつくされるのです。

 如来この我となって「とりえなし」とあらわして下さるのです。
自力無功とあらわして下さるのです。
はたらきにふれるからこちらの自力が負けたのです。私の理解や概念が破られる。
思う思わんに用事のない法を、用立てしようとしていた私、まったく当てのはずれたことであります。
六字はいつも私のところへ来て下さいますから、私の計らいが一切負けです。
私が聞いたから破られるのではない。如来のはたらきで破られる。破るはたらきが南無に仕上がっている。

聞いたものでやっているのはあかんことであります。
そのようになろうとするには、法を眺めものにしていること。
六字の法を聞くほかはありません。
思うも思わぬも見られた立場に立つのが信知の世界です。
さきの話ではないが、頭の上がらんものの前に立つのです。
背中を向けている自己が知らされるのですから、一生涯頭が上がらんのです。
助かりたい一杯が自力一杯。助からん私とは、私の本来の姿です。
それは如来がすべてをはぎとって、その通りのままにせしめてしもうたことです。
助からんという心境になろうと思うたからなったのではありません。六字が我になってしもうたのです。

 親の見た本当の私であること、それは親が来た姿です。
その意味で、助からぬとは言わせての親の声です。
私はなりたい一杯ですが、それを破られたから、こちらが負けです。
親が来ておりますから、たのまずにはいられないのです。信ぜずにはいられないのです。称えずにはいられないのです。
これ雑行すてて弥陀たのむのです。
念仏したら、信じたらではありません。念仏せずにはいられない身であります。

 なんと高大な仕掛けがあったものです。
弥陀のはたらきは、まったく不思議というほかはありません。
こんな不思議はまたと世にはありませんでしょう。


なんまんだぶつ

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