真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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捨てて

思ってはならないことを思うのが私です。こんなこと思ってはならない、と思ったときにはもう思っています。

けれど、「これは思ってはならないこと」と知っていれば、ましてそれを行為に移す事の罪も知っているから、思ったことを言ったりやったりしてはならないと尚更思うもの。だから思うから言ったりやったりするのだとしても、それが思ってはならないことであるということを知らされているのと知らないのとでは、大違いだと思います。

自力の心、計らいというのは、阿弥陀さまに対して思ってはならない心なのでした。疑い。疑ってはいけませんと言われる意味がわかります。でも、疑う者は救わないぞ、ということではないんです。疑っていると救われない、救いに遇えないということなんです。蓋をしているのは自分だからです。「阿弥陀には隔てるこころはなけれども…」です。それが阿弥陀さまの五劫と兆載永劫のご苦労を反故にする心だから、その罪の深さが知らされます。

「捨てるものがわからないと捨てられない」とよく聞きましたが、それはそのとおりだなと思います。

捨てるべきもの…否定されるべきものが全部否定されて、「これが捨てるべき心だったんだ」と知らされて捨てたから、もう私に必要のないものとわかります。必要ないとわかったら、もう手にしようとは、持とうとはしませんよね。
たとえ目に入っても、これは要らないもの、捨てておかないといけない、捨てものだと知っているから、拾わない…捨て続けるのです。

「思うなよ」でもなく、「捨てよ」。捨てたのがタノムこと。けれど、自分の分別や理解によってではなく、捨機即託法と聞かせていただきますように、阿弥陀さまの光明のおはたらきによって、阿弥陀さまにうちまかせさせられて、自力捨てさせられ続けていく…不思議なことですね。
                                   

 疑い晴れるばかりでお助けというのであるから、「私は疑い晴れたでお助け」と思うのは、私の疑わぬ心をたのむのである。安心はそうではない。疑いようのない御誓い一つをタノムのである。(加茂仰順和上)



なんまんだぶつ・・

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