真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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ただふかく願ふべきは後生なり

お友だちからお話をうかがうところによりますと、最近のS会では、言うなれば会の一枚看板である「善の勧め」にまた新しい根拠…と言いますか譬えのような話が使われているようです。

御恩報謝はおおいに励み勧められるべきだと思いますし、善いことを勧めるのはどこかに限らず、学校教育でも社会でも当たり前のことです。ことさら言われなくても、悪いことをしたほうがいいなどと言っている人など聞いたこともありません。

会に於いても、善いことの勧めは今に始まったことではなく、「関係がないと言いつつも関係があるように聞いてしまう人もいるような話し方」で、根拠を換えて言っているだけだと思って特段驚くことでもないと思っています。新しい譬え話を出されると、いつも同じような話ばかり聞かされていると目新しく新鮮に感じる気分も手伝って、また頑張ろうと思えて有難さを感じるのかも知れません。しかし、それが「往生とは関係ない」とは、いつも一応は言ってきたことだと思います。

私が聞いたころでは、よく「因果の道理」という話から善いことが勧められていました。それよりも前には、「宿善まかせ」ということからも、よく言われていたようです。「三願転入」ということからはそれよりももう少し後でしょうか。

けれどそれと同時に、私は「善が間にあってではない」「宿善まかせとはいっても宿善間にあってではない」と聞いていたので(その時の話は間違ってなかったと思います)、私は何を聞いても「関係ないこと」と思いながら聞いていました。そうは聞いても、関係があると思ってしまう心が自分にあることにも、気付いていました。だから、関係があるように思いたいのが私だけれども、関係はないのが本当なのだと。事実、「関係ないけれども」「それが間にあってではないけれども」という断りを必ずつけて言っていると思います。

因果の道理の話にしても、私のした善いことの結果で得られるのは何にしても「相対の幸福」でしかなく、その私の善ではいくら頑張っても「絶対の幸福」は得られないと思って聞いてましたので、後生の解決の為に差し向けるような気持ちではなく、相対の幸福が欲しい方や御恩報謝としてされたい方が進んで善をされているんだな…と思っていたのです。自分についてもそうです。(相対の幸福・絶対の幸福、という言い方は浄土真宗には合わないと思いますが。)
絶対の幸福になりたい人の集まりとは言っても、相対の幸福が欲しいのも人間だし、生きていくには必要なものだし、善いことに頑張るのは往生とは関係なく自由だと思って聞いていました。

「善をしなければ助からない」とは言っていないと思っていましたし、確かに聞いていた間は言っていなかったと思います。どんなに巧妙に「関係があるように思わせるような話し方」をしていたとしても。

しかし、巧妙さにもほころびが出始めて、本音が出てしまうと言ったほうがよいのか、はっきりは言わなくても「善をしないと助からないと思わせたい」んだな…と分かってしまいました。「間違った理解をさせたい、させたままで構わない」…そのほうが誰かにとって都合がよいのかも知れませんが、実態として捨てものを握っていなさいと勧めるような話では、必ず助けるのお話が、誰も助からないのお話になってしまうのです。

私の善と往生は関係がないと言われても、どうしても関係づけたいのが、私の心なのです。その心を捨てるようにお勧めくださるのが、聖人さまのご勧化だったのです。ただでさえ捨て難い信罪福心を、捨ててすべてを阿弥陀さまにおまかせするように、厳しく戒めてくださるお話でなかったら、私は捨てられなかったです。それが本当の知識の有難さ、優しさだと知りました。

さて、「雑毒の善で得られる相対の幸福でもたくさん欲しい、あったほうがいいのが私達ですね、それがいくつあっても往生できるかどうかには関係ないとしても、あったほうがいいですね。」というお話…

それはその通りだとしても、そこで、だからこそ「浄土真宗で」勧められることは何だろうかと思います。
雑毒の善でも得られる相対の幸福を獲るために善を一生懸命しましょうということが、本義ではない、本当の幸福になる道ではないことを知らされたから、聖人のみ教えを聞かせていただこうと思ったのです。

電光朝露・死出の山路

 それおもんみれば、人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。


これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。

しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章1帖1通



やはり、浄土真宗は、親鸞聖人のお示しくだされたおみ法は、想像以上に、素晴らしい教えでした。私などが素晴らしいなどと言って片づけられるようなものではない程、わかるようなものではない程、素晴らしいのです。
ただふかく願うべきは後生なり…阿弥陀さまの願いだから、その強い願いに引かれて私は「願うべき」と聞かせていただくことができました。すべて阿弥陀さまのお手廻しとは言え…いいえ、だからこそ私にも届いてくだされたのですから…阿弥陀さま…ありがとうございました。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・


*Comment

NoTitle 

あの譬え話を聞いて、自分の行う善と信心決定とを関連づけない信前の人は大変少ないですよね。
あれは不浄説法ですよ。
  • posted by 雑草 
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  • 2011.02/09 13:29分 
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不浄説法を聴いているような者でも阿弥陀さまは救ってくださらないのでしょうか?
  • posted by ワオ 
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  • 2011.02/09 19:58分 
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NoTitle 

不浄説法とは観無量寿経の下品中生にでてくる言葉です。その意味は、仏の教えにはずれた邪法を説いたり、名聞(名誉)や利養(金銭を得ること)のために説法をしたりすること。
梯実圓師は聖典セミナー『観無量寿経』(本願寺出版社)のp.327に、「自分がさとってもいないことを、いかにも体験しているかのように説いて人を惑わす説法。または生活のために説法をすることをいう。」と解説されています。
不浄説法といっても、生活のために説法しても、仏の教えにはずれていなければ、それを聴く人には不浄説法とは思えないでしょう。

阿弥陀仏の救いには、これをしたら助ける、これをしなかったら助ける、これをしたら助けない、これをしなかったら助けないといった条件はありません。しかしながら、不浄説法と思えるような説法を、私にはとても聴けそうにはありません。
  • posted by 雑草 
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  • 2011.02/09 23:00分 
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NoTitle 

雑草さん

>あれは不浄説法ですよ。

言い方も時代と共に変わってきて、はっきり言ったらそういうことになると思ったので、私は離れたのです…

ワオさん

不浄説法を聴いているような者でも阿弥陀さまは救ってくださるのでしょうか?

ということですね?もちろん、お救いくださいますね、阿弥陀さまをタノミさえすれば。阿弥陀さまのなされることですから。御恩報謝は努めて私がさせていただくことです。私がすることは間違いだらけだから、不浄説法はしてはならないと上の御文章の中で蓮如上人も仰せなのだと思います。間違った説法を聞かされて、間違いに気付かないままでは、救いに遇うことができませんものね…タノムところ、阿弥陀さまが抜けた話では、いつまでたってもタノムの御心がわかりません。と思いながら私はふと聖典セミナー口伝鈔本を開いておりましたところ、雑草さんがまたコメントしてくださいましたね、続きはまた後程…雑草さま、ワオさま、ありがとうございます。
  • posted by hiromi 
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  • 2011.02/09 23:08分 
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つづき 

『仏法を学ぶことは、「仏の大悲を学ぶ」ことです。

わけても浄土の教えを学ぶとは、阿弥陀仏の大悲本願の御はからいによって、自分も他人も共に救われていくことを知らせていただき、「本願を信じ念仏すれば仏になる」という本願の大道を歩ませていただくことの外にありません。

浄土の教法を学んで、その知識をひけらかし、論争をして他人を屈服させたり、学者としての名声を求めたり、信者を獲得して、経済的な利益を得ようと望むということは、まさに邪道です。

それは仏法を、世俗の欲望を満足させるための道具に使っているわけですから、世俗を超えるはずの道を、悪道に沈む道に変えたことになります。…』(梯實圓和上『聖典セミナー口伝鈔』p149)
  • posted by hiromi 
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  • 2011.02/09 23:59分 
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NoTitle 

こんにちは。
仕事の合間に読ませて頂いています。
ありがとうございます。

信罪福心は自力の心。
それでは救われない、(信罪福心の延長上に阿弥陀様の救いは無いから、この心は捨てねばならない)ということが最近分かりました。(もし表現や理解がおかしいところがあったら教えてください)

これを知ると、信前の私でも〇〇会で教えている「善のすすめ」は間違い、だと分かります。
阿弥陀さまの御心とまったく逆向きの教え、と言っても良いと思いました。
でも中にいたときは分からなかった・・・

hiromiさんの文章のここの部分を詳しくお聞きしたいです。
「願うべきは後生なり」の説明です。

ただふかく願うべきは後生なり…阿弥陀さまの願いだから、その強い願いに引かれて私は「願うべき」と聞かせていただくことができました。

これは欲生我国の心になったということでしょうか?

私は、「仏教を聞く目的の確認」「真剣な聴聞をするための心がまえ」と受け取っていました。
特に、私は「自分の死、後生」と言われてもピンとこないので、私の心に鞭打つための言葉だと、ずーっと思ってきました。

(真剣に聞けば何とかなれるという心が出てくるのも信罪福心によるもの、と今は思います)

教えて頂けるとありがたいです。
よろしくお願いします。


  • posted by スナオ 
  • URL 
  • 2017.05/27 13:33分 
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Re: NoTitle 

スナオさんコメントありがとうございます。

善いことは、したほうが善いに決まっています。
「善いことを」するなではありません。「善いことをすることに依って救われようと」するな、ですね。
勧められているのは、ご信心であり、行で言えばお念仏(報謝)でしたね・・・
この辺りはご存知かと思います。

私も、後生ときいてもピンときません。自分で鞭打ったところで、ピンときませんし、仮にピンときて、何か頑張ったとして、
それが間に合いますでしょうか・・・例えば、真剣に聞けたらいいとしたら、どれだけの真剣?真剣に聞けない人はだめ?

私には助かりたいという心すら、ない。たまに起こったように見えたとしても、それも一時で、続かないのです。
続かないのだから、本物ではありません。
真剣に後生を願う心など無い。一日、いえ、30分ですら想い願い続けられない。
そんな私が、救われたいと思う、もうそれは私の心ではなく、阿弥陀様の心でしょう。
それは、たとえいっときでも、一瞬でもいいのです。
一時しか願えないから、時間がかからず救える名号で成就してくださったのではないでしょうか。
どんな縁であれ、一瞬でも、そんな心が起こるのは不思議です。
強い願いと働きかけによって、起こされたものとしか思えないのです。
  • posted by hiromi 
  • URL 
  • 2017.05/27 19:33分 
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NoTitle 

hiromiさん、お返事ありがとうございます。

どこまでいっても仏法聞けない姿が知らされます。

hiromiさんのような仏縁深い方は「だんだん後生が気になる心」に調熟されて「真剣な聴聞」をされるのだと思っていました。

ですが、こうやってお聞きしてみると、仏縁深い方も「後生と聞いてもピンと来ない」「救われたいと思う心もない」という心は変わらず、阿弥陀さまの強い願いと働きかけによって「救われたい」の心が起きるのだと分かりました。

なんで聞く気のない自分が求めているのか、分からない時があります。
会から離れているので今は義務感でもないし、なんでだろう、と思っていました。
お同行さんをはじめ周りの人や環境のお陰と思っていましたが、何より目に見えない阿弥陀さまの願いが強いことを教えていただきました。

  • posted by スナオ 
  • URL 
  • 2017.05/28 11:52分 
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Re: NoTitle 

本当に、不思議なことですね・・
仏縁深い方・・こういう言い方があるにしても、あの会では使い方が独特ですよね・・別にスナオさんを責めるつもりは全くありませんので誤解しないでくださいね。そういう風に感じる自分自身にいま気づいていることも不思議なのです。
思い返してみれば、今助かるはずだと思って聞いていた私ですが、活動とやらもそこそこの私は、あの会では仏縁浅いというランク付けだったと思います。だけど、そんな人間のレッテルに意味はないのです、お救いは人間ではなく阿弥陀さまが平等になさることだから。やはりそこも、本来の使い方とはおそらく違うのでしょうね・・・
スナオさんも、私も、違う人間でありながら、帰するところは同じ。「みんな違って、みんないい」というみずずさんの言葉ありましたが、みんな違っても、いずれ、みんな同じ世界と聞こえます、大丈夫、間違いないですよ、間違いのない仏様のなされることです。
ありがとうございます。
  • posted by hiromi 
  • URL 
  • 2017.05/31 00:59分 
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NoTitle 

こんにちは。
ひさしぶりに書き込みさせて頂きます。
仏縁に深い・浅いは無い。
ちょっと早いか遅いかの違いだけ。
必ず救われる。
必ず救うお慈悲だから。
と知らされました。
仏様のなされること。
間違いはありませんでした。
おっしゃるとおりでした。
  • posted by スナオ 
  • URL 
  • 2017.06/22 18:11分 
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こんにちは 

スナオさんありがとうございます。

>仏縁に深い・浅いは無い。
仏様からは、そうなるでしょうね。
すべて平等に救うとされる仏様が、深い浅いと区別なさっているとしたら、おかしなことになります。
もし、あるとしても、「深いも浅いも全部救う」ですから、「深いからいい」「浅いからだめ」というのは、仏様を泣かせているのではないでしょうか。
スナオさんが聴かれたように、お聴聞とは、仏様の見方を届けてくださるおはたらきと思います。有難いですネi-189
  • posted by hiromi 
  • URL 
  • 2017.06/24 00:52分 
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