真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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弥陀果徳 聖衆無量

雑草さんからコメントをいただいて『大無量寿経上巻 弥陀果徳 聖衆無量』のところを読ませていただきました。

 釈尊が続けて仰せになる。
「無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。菩薩たちの数もまた同様である。目連のように神通力のすぐれたものが数限りなく集まり、はかり知れない長い時をかけて、命が尽きるまで力をあわせて数えても、その数を知り尽くすことはできない。それはたとえば、限りなく深く広い大海の水に対して、人が、一本の毛を百ほどに細かく裂き、その裂いた一すじの毛で一滴の水をひたし取るようなものである。そなたは、その一滴の水と大海の水とをくらべてどちらが多いと思うか」
 阿難がお答えする。
「その一滴の水と大海の水とをくらべようにも、量の多い少ないの違いは、測量や計算や説明や比喩などでは、とうていはかり知ることができません」
 釈尊が阿難に仰せになる。
「目連のようなものたちが、はかり知れない長い時をかけて、その最初の説法の座に集まった声聞や菩薩たちの数を数えても、知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである。(『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社)



それから、時々読ませていただいておりますこちら『浄土真宗やっとかめ通信』に、詳しくお話がありました。これを読ませていただいても感動します。

 悉有仏性の初動

 前回は、「阿弥陀仏と念仏者の寿命(主体)が長く久しい」という経意を、?創造的世界の創造的根本主体?である阿弥陀仏の寿命が、創造的前衛主体である念仏者(正定聚ショウジョウジュの菩薩・声聞)の寿命と成って無限に展開している事実から確認しましたが、今回は弥陀成仏の際に集まった「初会ショエ声聞衆ショウモンシュと菩薩衆の数」が称計ショウゲすべからず(数え切れない)という内容を事実として明らかにしていきます。

註釈版
仏、阿難に語りたまはく、「かの仏の初会の声聞衆の数、称計すべからず。菩薩もまたしかなり。

現代語版
無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。菩薩たちの数もまた同様である。

 阿弥陀浄土に集う声聞・菩薩の数が量り知れないということは、前回も<また声聞・菩薩、その数量りがたし>とありましたが、今回は「初会」の声聞・菩薩衆の数ですからまた意味合いが違います。前回は、今現在の阿弥陀仏浄土に集う声聞・菩薩衆の数ですが、今回は、阿弥陀仏が十劫成道を果たした(参照:{弥陀果徳 十劫成道})その瞬間、既に声聞・菩薩衆の数が計り知れないほど集っていたというのです。これは実に驚嘆すべき内容、そして有り難い内容なのですが、何が驚くべき有り難い内容であるのか解りますでしょうか。

阿弥陀仏の初会の衆は、声聞・菩薩の数無量なり。 
神通巧妙にして算ふることあたはず。このゆゑに広大会を稽首したてまつる。
『讃阿弥陀仏偈』15

弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき 
浄土をねがはんひとはみな 広大会を帰命せよ

『浄土和讃』16

 このように曇鸞大師や親鸞聖人は、阿弥陀仏の初会(初めての説法)に集まった声聞・菩薩の数が無量であることを褒めてみえますが、この果報を生んだ因は{声聞無量の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとくともに計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ>にあります。願文では「国中の声聞」のみですが、その背景として「国中の菩薩」も隠れています。このことは後にも触れます。

 初会の衆の数が無量であるといっても、?大勢の人たちが寄り集まって阿弥陀仏の教えを聞きに行った?という意味ではありません。逆に、阿弥陀の側から?一切衆生には全て聞法精神・求道精神が宿っている?と見抜かれたのです。仏教徒であるなしに関わらず、またどんな悪人でも、心の奥底では?真実の法を聞きたい?とか?真にこの人生を成就させたい?という願いがあるのですが、阿弥陀仏は衆生に先んじてこれを覚り、衆生は阿弥陀仏より回向される形で聞法精神・求道精神を身に受けることになります。 
 自分の
不甲斐フガイなさを嘆き自暴自棄になりそうな私たちに、阿弥陀仏から褒められる形で不断なる聞法求道の精神を頂くのです。そして同時に阿弥陀仏は、成就の方法(方便)も確立しているために<弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき>と自信を持って言い切れたのです。

 いくら「一切衆生悉有仏性」と見抜けても、結果として仏性が身に満ち生活として展開しなければ有っても無きが如しであり、?有っても無きが如し?ものであれば仏教では評価することはできません。阿弥陀仏は既に「五劫思惟」によって五悪趣の迷いの世界を超えたところに本願を見つけ、清らかな行を選び取って浄土を荘厳(創造)するため永劫の修行を成就された、こうした裏づけ・果徳を得ている阿弥陀仏だからこそ聖衆無量と言い切れるのです。逆に言えば、せっかく集まった声聞に縁・無縁の優劣をつける経典は、その経家の覚りがまだ狭くさわりがあり、現実に一切衆生を導く内容に成り切っていないことの裏返しでもあるのです。

 前回の?声聞・菩薩衆の数が無量?なのは、実際に仏法が転じられている今現在の果報を言いますが、?初会の衆の数が無量?で解るのは、法を語る最初から、既に阿弥陀仏は一切衆生の願往生と入正定聚を確信してみえた、ということです。この阿弥陀仏の確信があるゆえに、願成就の報土である阿弥陀の浄土は広大会コウダイエとして、何者をも拒むことなく、皆が皆を尊敬し、全ての衆生が心ゆくまで本音を語り合い、仏法を聞き開き、楽しく仏道を修することが適う場となるのです。 
 しかし諸仏の場合は、相手が一定の条件を満たしていなければ入門を断わらざるを得ません。これは諸仏に悪差別があるせいではなく、諸仏の宗教的動機が特殊であったり、時代性や地域性が完全には抜けず、方便にも限界があるせいなのです。そのため諸仏は一切衆生悉有仏性イッサイシュジョウシツウブッショウと覚ってはいても、所謂いわゆるキャパシティーには限界があり、そのため受容人数が限られてしまい、聖衆無量と言い切ることができないのです。

 たとえば大乗の『涅槃経』では「一切衆生悉有仏性」とも「衆生即仏性」とも言いまして、?生きとし生ける者全てに仏性が有る?と発見し、皆が仏に成れることを可能性として説いていますが、この可能性が本当に実現してゆく道程までは説かれていません。また中には「彼等のような者たちは退出した方がよかった」と、説くべき対象が一切衆生ではないことを理由に最高級・真実の裏づけとしている経典もありますが、これは全ての機に応じ切れていない結果でもありましょう。しかし『仏説無量寿経』では、悉有仏性の前提・理念・初動・展開・結末まで全てをこと細かに開いてみせています。 
 初会の衆無量は初動の段階ですが、ここにおいて既に結末までの展開が充分予想されていますので頼もしい限りと言えましょう。なぜなら、一切衆生を抱いて仏国土を創造し続ける根本主体(阿弥陀仏)にとって、負担とも見えていたであろう私たち悪衆生が、負担どころか、仏の願いを聞き開き、仏行展開の担い手とさえなってくれる存在であることを確信したのですから。

 可能性としてだけ念じられていた悉有仏性が、仏性の側から一切衆生に聞法精神(声聞)・求道精神(菩薩)を見出した。これは具体的な一歩、それでいて確実に願成就の方向性を見出した一歩でしょう。諸経においては?去る者は追わず?と捨て置かれた悪衆生も、阿弥陀仏の「わが声聞よ」との呼びかけにはうなづかざるを得なくなるのです。どこまでも追いかけて法を説く浄土経典によって、衆生に見出した仏性の萌芽を阿弥陀仏の側から衆生に呼びかけ、衆生に成りきり、五劫思惟と永劫の修行によって、今ようやく真実の法を聞いてみようという心がけができた、という道程が明らかになります。

いくたびか お手間かかりし きくの花
(加賀千代)

 



どれほどの、ご苦労をおかけしたのでしょうか。
よくもまあ、なんという、お慈悲でしょうか。
何もわからない私で、申し訳ないばかりの私なのに、阿弥陀さまは喜んでいてくださいます…

なんまんだぶつ・・

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