真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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難信の法

釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、
よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、
阿耨多羅三藐三菩提を得て、
もろもろの衆生のために、
この一切世間難信の法を説きたまふ。(仏説阿弥陀経)



難信の法とは、世間の道理を超越しているから、自力の心では、甚だ信じ難い法であるということと、それは同時に法の尊さを表していると聞かせていだだきます。

私の力を一切必要としない、用いては叶わないのですから、それを捨てる、離れるだけなのですからこんな易しいことはなく、それは阿弥陀さまのお力によってのみであって、自分でまかせられるようになろうとすればこれほど難しいことはなかったのですが、ただそうなさしめられる阿弥陀さまにただ頭を垂れるばかりです。

何も要らない、条件はない…と聞いたら、「そんなばかな、絶対の幸福だぞ、世間の幸福でさえ大変な苦労をしなければ獲られないものを、永遠の楽果を獲ようとするのにそんな苦労もせんで獲られたということがあるものか…」
そうやって、世間の道理・私の理屈にあてはめようとしてきたのが私でした。
自分の苦労の引き替えに獲られると思う、そんな取引根性しかないから、苦労しなければならないと思ったり言ったりする人の気持ちもわかります。私の苦労の対価なら、苦労が大きければ大きいほど獲られるものも大きいと思ってしまう。いつしか、苦労するのが生き甲斐になってしまう方もあるのでしょうね。追いかけて、追いかけて、追いかけていることで安心してしまう。信じ難いのです。信じ難いと聞いて、難いのだから「信じる身になる為には行(善)が要る」というような考えになってしまう。行は難いので、「なるほど信じるまでの行は難くて当たり前だ」というような理屈も聞きました。やっぱり信じ難いのです。

けれど、私の苦労と引き替えにください、これだけ苦労したからさぞかしそれは素晴らしい幸福でしょう…というような私の欲望を満たす為のようなものが、阿弥陀さまの救いではなかったのです。

阿弥陀さまの願いだったのです。阿弥陀さまがご苦労されたのです。この私の為に。それは最初から私がお目当てのものとしてお誓いくだされていたものだから、そのとおりに成就してくださった本願だったのです。知らされたこの身が不思議でなりません。

うまく言えませんね。勉強不足です。

長い間のお育てをいただいて、今この身の私、これからもお育てをいただいていくのはこの私です。

なんまんだぶつ、なんまんだぶつ




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