真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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宗教的普遍性

少しずつですが、ご法義の勉強もさせていただいています。

先日は以下のところが心に残りました。

 …さて聖人は建長七年(推定)九月二日に、「念仏の人々御中」宛と、「慈信房」宛の二通の御消息を差し出されています。これは慈信房善鸞が、東国教団の門弟中に造悪無碍の連中がいること、そしてその張本人が信願房というものであること、またそのことによって在地支配者の念仏弾圧が厳しくなったこと、などを聖人に報告したその返報であります。

 聖人は、まず念仏の人びと宛の御消息において、「諸神諸仏をことさら軽蔑してはならない。そのことを口実として支配者たちが念仏者を弾圧するのは常套手段である」と誡告し、善鸞宛の御消息においては、「信願房が造悪無碍を働き念仏弾圧を誘発したからといって、信願房のことをとやかく批判してはならない。かれは念仏弾圧者と同じように、真実が何であるか知らない憐れな人なのであるから」と諭されています。

~(中略)~

 聖人の宗教的立場からすると我執的な権力と一体化して念仏を弘めてみても、それは形式的に念仏が弘まるだけで、すでに念仏の真実性は失われてしまうことにほかなりません。そこで聖人は、もしその地で念仏を続けることが不可能になったならば、他の地へ移ってでも念仏の純粋性をまもらなければならないと指示され、きわめて厳しく政治権力に依存することを否定されたのです。

 しかし、それは支配者たちを憎み、ののしる感情にもとづいた対決ではありません。聖人は念仏弾圧を行なう権力者を、念仏の真実性が見えない人、聞えない人であり、むしろ憐れむべき人たちであるから、念仏の道に転ずるように念願すべきであるといわれています。かれらも念仏の真実性に目覚めうる人として、決して阿弥陀仏の救済から漏れるものではなかったのです。ここに念仏者の立場が、敵対者に対しても慈愛心を捨てない姿勢、すなわち宗教的普遍性を求めていることを知ることができるでしょう。(中央仏教学院通信教育部『真宗Ⅱ』二年次テキスト)



念仏者の立場、敵対者に対しても慈愛心を捨てない宗教的普遍性を求める姿勢というところ、このあたりのところをもう少しうかがっていきたいと思っています。なんまんだぶつ

 

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