真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

善鸞の異義についてのお話

専門の先生方から二日間聞かせていただけて、大変有り難いご縁でした。

善鸞の異義についての講義もありました。聖人については結婚された時期についてもいろいろな説があるようにご身辺のことについてはわからないことも多いようですが、歴史のことは「いろんな説があって、~~とも・・・・ではないかとも言われている」ということも多分にあって、それでも十分話はできるのですし、またよくわかっていないことはそのように言うのが当たり前だと思っていましたが、よく調べもせずに一つの自分の知っている説を事実であるかのようにいう人もいるのだなと、丁寧なご講義ぶりにそんなことまで考えさせられてしまいました。

この異義をとおして聞かせていただいたのは「油断をすると自分の都合のいいように解釈をする」ということでした。

関東では造悪無碍の異義が出てきて、「悪を造っても救いの障りにはならない」と。これはこれで、正しいのですが、だからと言ってやらなくてもいい悪をやってもいい、どんどんやっても構わないとなると、これは造悪無碍で、すると反対のこと「専従賢善の異義」が出てきて、一生懸命やるのはいいことだけれども、だからと言って一生懸命善いことをしている私のほうが阿弥陀仏はかわいがってくださるのだという間違いになる。

善鸞も、聖人の名代として派遣された関東の地で思うようにいかず、それはそれで一生懸命だったのだと。それでどんどん曲がっていってしまった、というお話もあって、講師の先生がしみじみと言われた言葉が印象的でした。

「…人間って難しいですね。。。一生懸命やればやるほど、どうなるか分からないということがあります。…」

一生懸命頑張ること自体は決して悪いことではないのですが、一生懸命になっている時ほど、造悪無碍、賢善精進と極端なことに走りやすいのが私なのだと、また、政治権力というものは「自分の利益の為に動く」という性質のものであって、お念仏とは相容れないものだけれども、私が己が利益に引きずられるときこちらに走りやすいとも仰られて、そのとおりだなと思いました。

「750年経っても私たちを心配してくださっている聖人のお言葉として受け止めていく」ということも、心に留めておきたいと思います。なんまんだぶつ

*Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

Menu

プロフィール

hiromi

Author:hiromi
hiromiです。

日々の喜びの中で
感じたことを綴っていきます。

メールは上の「Menu_s」からフォームを開いてください。

CalendArchive

最新記事

Link

*~*~*~*~*~*~*~*~*
当ウェブページはリンクフリーです。 リンクしてくださりありがとうございます。

全記事表示リンク

メールフォーム

メールはこちらからでもどうぞ ご感想、ご質問、雑談等、お気軽にお寄せください。

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム

FC2カウンター

最新トラックバック

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。