真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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信じる心があるのなら

S会というところにいたとき、ある時ある人に、喧しく言われる求道ということについて、求道とは何ですか?と聞いたことがあります。

そうしたら「善知識を信じる心」と返ってきました。
求道というのはそのままで言えば道を求めることなのだから、問いに対する答えとしてはしっくりこないのです。
せめて「善知識を信じる心で進んでいくことだ」とか「善知識を信じる心を深めていくことだ」とか、あるいはこちらが求道の上で大切なことは?とか、必要な心は?ときいたのならわかりますが、長年親鸞会にいるとこうしたちぐはぐな答えが当たり前になるというか、

曖昧さとズレに違和感を感じないようになって、自分もそれで自分を誤魔化して納得させていくのが習慣となっていくから益々何とも思わないようになって、他人もそれで納得させられる(させよう)と思うようになるのだなと思います。無意識の領域で。

それは置いておくとしても、その答えの言いたいことや相手の心を想像するに(と、ここでも御心を察する努力を求められる訳ですが)、求道していくのは善知識を深く信じられるようになる為とか、求道していくことによって善知識を深く信じられるようになる、そのことで求道が進む、というようなことなのでしょう。

いずれにしても、S会では救いの前提としての求道が存在しますが、そこで必要かつ求められることは、善知識を信じることなのです。

それで、善知識とその説く教義を固く信じていく訳なのですが、彼らの言いそうな言い方でいえば、
万が一にも億が一にも絶対に〇〇先生の説かれることに間違いがあるはずがない
そんな自信に満ちた勢いで信じているようです。

そんな言葉を聞いたりする度に、
私にそんな万が一にも絶対間違いないと信じる心はあるのかなあ、
そんな心があるのなら、自分で獲られるのなら、保てるのなら、浄土真宗では間違いのない本願を信じたら今救われるのではないですか?私は絶対救われる、絶対間違いないと信じることができるのだから。
絶対間違いないと信じられる心があるのなら、その心で阿弥陀仏を信じたらいいのに、それができないから救われないのではないのですか。
始めの頃からずっと思っていました。
そのまま今から思うと二の足を踏むような心で、ずるずると何十年…阿弥陀さまには申し訳のないことでした。

やっぱり、私には信じる心はなかったのです。
なんまんだぶつ



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