真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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リア充?な私

前回書いたのはついこの前のような気がしていたのに、もうこんなに日が経っていたなんて…!
ますます私の時間は超特急で過ぎていきます…
もっと時間があればいいのに、時間も体力も限られているのですから仕方ありません。
といってもどうでもいいことに悩んだり慌てたりバタバタしているだけなのですが、忙しくできるのも生かされているからこそで有り難いことです。

最近、「リア充」という言葉を知りました。
最近のネット社会では、ネット上の世界に対して、学校なり会社なり家庭なりの現実社会が言葉そのままでリアルということで、ネットが職場である人は別として、たいていは趣味であったり遊びであったり情報収集の手段であったりといいう人が大多数なので、副次的なものという位置づけは前提としてあって、「リア充だからもう来ないよ」とか「リアル優先で」とか言ったりするようです。

私の中では、ネットもリアルの中の一つという感覚なのですが、何事もそうですが、嵌まってしまって抜けられないと依存症のようになってしまいますから、そうすると、ネットのほうがどんどん大きくなってしまって、いつの間にかリアルから離れてしまっていた…ということになるのでしょう。

世界は一つで、その中にまたいろいろな小さな世界があるのであって、どれも本当なんですが、頭の中が二元化されてしまうと、世界も二つに分けられてしまいます。
真実の世界と虚構の世界といった感じにです。虚仮の世界と言ってもいいかも知れません。
そして、今は虚仮の状態(世界)にある私が、真実に触れ、真実に漬かっていくことで、本当に自分が虚仮であることを悟ったとき、虚仮である私という真実が体得できると思ってしまうんです。
虚仮の世界から、真実の世界に生き返る、生まれ変わるかのように思って望んでいたのですね。
これは煩悩具足の私で現世で救われていく浄土真宗では全くなかったのですね。

浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
  虚仮不実の我が身にて
   清浄の心もさらになし

悪性さらにやめがたく
 こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆえに
   虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまう



真実の心がないというのが、「ありのまま」の私なんです。
それなのに「まことのこころがないと知らされたまことの心が得られる」世界を夢見ていたんだなあ。
「知らされよう、知らされたい、知らされたら…endless…」自力の最たるもの。
ありもしない、今はっきりしている阿弥陀さまのお救いとは別の意味ではっきりした世界を夢見てた。
真実とは、ありのままの私で救ってくださるというおはたらき、
阿弥陀さまのなかにありのままの私が抱かれていくんですね。

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまう

…なんまんだぶつ、なんまんだぶつ

*Comment

 

このことはとても大切なことですね。
親鸞会では「絶対の幸福になれる」と聞かされていたので、一念で絶対の幸福に生まれ変わると当時の私はそのように思い込んでいましたね。
特に親鸞会で仏凡一体の話を聞いたときには、信心決定すると悟りを開くに等しい智慧を得るように理解していました。
まことに五劫思惟のご苦労が偲ばれます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
  • posted by 雑草 
  • URL 
  • 2011.10/28 16:54分 
  • [Edit]

 

>このことはとても大切なことですね。
ありがとうございます。

>一念で絶対の幸福に生まれ変わる
>悟りを開くに等しい智慧を得る

私はこのような誤解を抱かせているのがS会で救われない大きな要因だと思っています。
以前機関紙に載っていた幹部会員さんの手紙の中に、「自分の考えることは凡夫の浅知恵だから」と丁重に会長に判断を仰ぐものがありましたが、会員は救われた人は既に凡夫ではなく、仏法に関して何でも全て正しく判断できたり答えたりできるようになるかのように思っているところがS会(と出身者)にはありますね。すべての人がそうなるとは思っていなくても、少なくとも会長はそのように何か仏智を体得した人のように思うから、善知識だのみにもなるのでしょうね。

絶対の幸福と絶対の幸福を得るという一念の強調がS会の特徴と間違いの原因だと思います。
善の勧めは表面的に現れているものであって、むしろその根底にあるもの、親鸞会の善の勧めを受け入れざるを得ないようになっていくのは、善を不要としても救われないと感じるからです。

私もそうでしたが、きっと親鸞会の誰しも、善で救われることは否定するでしょう。「善の勧めはあっても、善で救われるのではない」と言います。善の勧めというのはS会にとっては本願寺に勝ちための(会員個々にとってはやはり本願寺では駄目だと植えつける)為のプロパガンダというのが最大の役割と思います。同時に、人に最高の幸福である絶対の幸福になる道を伝えることは最高の善になるとして、善=S会教義を広めること(S会に従う事、S会に尽くす事)とすることによって勢力拡大にも利用されてきました。会員にとって善であるかどうかは、その都度会の意に沿っているかどうかだけです。(会にとって都合のいいことが善になる。しかもそれもコロコロ変わる)

「本願寺では善の勧めがないから救われない」
S会ではこう刷り込まれてしまいますが、これはまず「本願寺では救われている人がいない」というのが前提にあってのお話ですよね。

S会の人が「本願寺では救われている人がいない」と思うのはなぜなのか、そこが人がS会に惹かれてしまい、そしてなおかつ救われないことと大いに関係があると思うのです。一言で言ってしまえば、それも自力に他ならないのですが。自力の迷情捨て難し…ですね、なもあみだぶつ
  • posted by hiromi 
  • URL 
  • 2011.10/30 19:59分 
  • [Edit]

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