真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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お聴聞にて③「信心から出てくるもの」

ご講義の中でも特に印象に残ったものの一つでした。僧侶と在家の違いは?というところの中でのお話でした。

信心→教義(理論的な体系)
   →儀礼(行動に現れたもの)
   →教団(社会的な組織に現れたもの)

真宗の場合は教義が中心になる。
その下に儀礼や教団がある。同列ではないし、同列にできないものである。
いずれも信心から出てくるもの。

毎日おつとめしましょうというのも、教義では言わない。おつとめしないと助からないなんて言わないから。
おつとめしようがしまいがお浄土には関係ない。お念仏一つだから。
本願寺も坊さんもいらない。教義からはそういうことになる。

だけど、信心からおつとめが出てくる。
儀礼も、信心があってつくられるもの。教義とは同じ土俵では語られないはずのこと。

~~~~~~~
親鸞聖人は自らを非僧非俗とおっしゃいました。
講義をされた先生は、衣をつけた僧侶という立場について、伝道ももちろんあるが仏様の近くでお給仕をしお仕えをさせていただく者とおっしゃいました。内陣へ入って仏さまへの儀礼を専門的に執り行うことについて僧侶の仕事があるという、法を伝えるのは僧俗の区別はないが、儀礼については専門的な内容があってその部分について衣をつけているという区別があるのではないかというお話でした。

儀礼だけになってしまうと、法事仏教葬式仏教といわれるようなものになってしまうのでしょうし、教義だけからすれば坊主も教団もいらないのです。(教義からすれば、僧侶や教団がなくても救われるのが浄土真宗。)

だからどちらも信心があってこそであって、信心を抜きにした儀礼や教団、形式のようなことばかりではむなしいものとなりますね。

浄土真宗は、信心がなくては始まらない。「ご信心いただいていないのは、浄土真宗ではないということです」というお話を思い出しましたが、出発点をゴールと間違えて幻影のゴールを目指していてはたどり着けるはずもありませんでしたね…。お恥ずかしいことでした。なんまんだぶつ 

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