真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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一回の聴聞が足りなくて救われなかったら…と思う心

大学生の頃、毎週毎週全国どこかしらに、聴聞の為と言って出かけていく私を、家族は心配しながら、言っても聞かないのだからとどこかで諦めた気持ちで見ていたのだと思います。

いわゆる「追っかけ」状態なんですが、アイドルや演劇の追っかけと違って心配されるのは、(それを追っかける心の根底にあるのは実は同じなのですが、)そこにかかる代償と得られるものの、バランスの危うさだと思います。カルト宗教の追っかけは、最初の触れ込みと違って、のめりこめばのめりこむほど、実は奪われるだけになっていくという…。
確かに、得られるものもあるのですが、(だからこそ続けるわけで、それが全くなかったら続かない)、それってそこでしか得られないもの?最初にそこで得られますよと言われていたものは得られた?と考えると、過去(自我)を否定したくない気持ちから礼儀や忍耐が身についたと慰めてみても、それはむしろ他のところにありふれたものだし、礼儀や忍耐を身に着けるために入会したんじゃなかったよね?と思います。

人間関係の部分も大きくて、私はカルト宗教について知れば知るほど、振り返ってみればみるほど、なぜやめないの?なぜ信じるの?というよりも、信じたくなる気持ち、辞められない気持ち、言っても聞かなくなるほどの状態になる気持ち、そちらの気持ちのほうがとてもよくわかるような気がします。

冠婚葬祭も軽いものになって、子供の行事ですら簡単に休んでしまった、これは私の場合は一回だけだったのだけれど、そのことを思い出すたびに心が痛みます。自分もあんなだったんだなと。
後生の一大事が重いから、それに比べれば、世間の事は軽いものとする、それが当たり前の周りの雰囲気に、逆らうことが恐ろしかっただけなのです。私の場合は。でもそれが当たり前のまま、続かなくてよかった…とも今心から思います。本当の宗教は、救いを与えてくれるものなのです。喜びと感謝を与えてくれるものなのです。子供の成長を知る機会にも触れ、それを心から喜べる、そして共に阿弥陀さまがあってくださることにお念仏する…宗教は人生を豊かにするためだけのものではありませんが、本当の救いは確実に、人生を豊かにしてくれるものだと思います。少なくとも、人生に犠牲を強いるようなものであるはずがありません。

いつだったか、どなたかが「この一回の聴聞が足りなくて救われなかったと後悔したくない」と仰っているのを聞きました。
ああ…、と思いました。足りなくて、ということは、足りた、ということがある、来ると思っている。
この心のままでは、たとえ幾千回真剣に聞いても、間に合うことはないのです。
ただの一回も、間に合わないのです。私には。間に合わせようとするその心…
それが捨てもの…と聞いても、真剣に聞かなければ捨てられないと聞いて、真剣に聞いたら捨てられるとまた真剣さで間に合わせようとする…
そう思わずにいられない心を、捨てがたい心を、利用していたのは誰なのでしょう。もちろん、自分も。

なむあみだぶ

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