真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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分別して理解しようとした途端にわからなくなる

「仏と人」という本が本棚にあったので、読んでみました。

ある先生のある文章、どこか他の本にも載せられていた内容なのか、同じ先生だから言葉遣いが同じだからなのか、何度か読んだことがあるような印象です。

それにしても。
流れるような自然な文章で、易しい言葉なんだけれども筋道だった文章で、非常にわかりやすいのです。でも、このような文章が、以前は読めなかったんですね。どうしてなんだろう…と不思議でしょうがないのですが、理由は自分なりにわかっています。変な教えの変な説き方に慣らされてしまっていたがために、行間を埋めなくてもいい、素直にそのまま読めばいいだけの、むしろ普通の文章が、読めなくなっていたんです。

会をやめてしばらくしたころ最初に衝撃を受けましたのは、ブログでもたまにご紹介しています、加茂師の文章なのですが、私は大きな衝撃と感動を覚えました。今でも一番好きですね。
でも、表現の仕方は違っても、「ご信心について説いていらっしゃる方なら」、皆さま同じことを仰っていると感じます。阿弥陀さまのお話なら、同じです。ご自身の体験や、自分側の話になると、個別の違った話になりますね。。

話が逸れました。今日読んだ中には、極々一部のみ抜粋すると、

「…このような知識を超え、言葉を超えた領域を聞く言葉は、分別して理解しようとした途端にわからなくなってしまいます。ただ仰せの通りに受け容れるしかないのです。」

「浄土があることがわかったら信じるとか、如来がわかったら受け容れますとか言っていたら千年経っても受け容れられるものではありません。それが解らないから迷っているのですから。」

「すべては本願の言葉を受け容れたところから始まるのです。」

とあって、有難く聞かせていただきました。
それが解らないから迷っている…まったくそのとおりです。
すべては本願を聞いたところから始まる…一度聞いたら終わりのゴールのような話ではないんですよね。ナムアミダブ。

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