真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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勝手に助けてくれればいいのにと撥ねつける私

聞法精進しますとか、○○に努めますとか言葉を濁してみても、詰まるところ「信心獲得するために頑張るぞ!」ということにほかならなかった訳で、一体この私の、どこをどうどれだけ頑張ったら、地獄行きでない身になれるのか。なれないよ、だから助けるよまかせなさいのお慈悲を、疑って否定する、まだ信心頂けていないから努力しますなんてどの口が言えたのか、ただ恥ずかしい私です。

素晴らしい先生方の言葉をとおして、阿弥陀さまの不思議にお念仏させていただいています。その為古本を集めるのが趣味のようになっておりますが、加茂先生の本がいつの間にか高騰しているのに驚きました。以前は高くても千円くらいだったのになあと、これも需要と供給の経済の仕組みによるものと感慨深いものがございます。とはいえ、お念仏がお助けくださることは、本の有る無しやその価値にはすこしも左右されないのですけれども。

最近出会った、大峯顯教授の著作ですが、よく聞く使い慣らされた言葉とはまた違った言葉遣いが新鮮で、ハッとさせられたり、ドキドキするような嬉しさを感じさせていただいています。

われわれは救われるから救われるんじゃないんです。
われわれはどこまでも救われ難い凡夫です。
本願を信じたからといって凡夫でなくなるわけじゃありません。
われわれはどこまで罪悪深重の凡夫であって、地獄にしか行きようがない。
その凡夫の私を救おうというのが、如来さまの本願です。

昨日までは救われなかったけれど、今日は阿弥陀さまにお遇いしたから救われるようになったということじゃありません。


妙好人の浅原才市は、
助かるとはそりゃ無理よ
助けてあることのなむあみだぶつ。(楠恭著『妙好人随聞』二四四頁)
と詠っています。

どこまでも救われ難い煩悩の凡夫のままで救われるのだということです。
ご法話でよくよく聞かなければならないのは、実にこの一点ですね。
昔のお坊さんは実に面白い表現をしています。

「私は救われるんでしょうか」「救われないのよ」。
「救われないんでしょうか」「救われるのよ」。
どっちですか、もっとはっきり言ってくださいと言いたいところでしょうが、人間の分別的言語の論理に合わせてはっきりさせたところで、救われるわけじゃありません。

だから、「救われるのか」と聞けば、「救われない」と答え、「救われないのか」と問えば、「救われる」と答える。
真実はこれ以外に言いようがないのです。
お念仏の人には、この真実がよくわかるのです。
(大峯顯『歴史の底から 正像末和讃を読む 上』八一頁



「明日救われるかも知れない」じゃありませんでしたね。
そんな考えのままでいたら「明日救われるかも知れないからその為に頑張ろう」となって、疑い撥ねつけていることにも気付かないままだったろうと思います。不思議です。

「助けてあることのなむあみだぶつ」


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