真の知識にあうことは

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき 親鸞聖人

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あみださまに 背を向ける私 逃げている私

お寺の掲示板に、「阿弥陀さまに 背を向ける私」と貼ってありました。
本当にそうだなぁと有り難くて、お念仏。。。

K先生とKさんとの問答。
とても厳しかった問答…と言っても、詰問されたり、叱責されたり、追及されたりするんじゃありません。
お二人とも、すごく優しかったですよ。
厳しかったのは、内容が、、、です。

いろいろ話して、答えてもらったりして、それでもはっきりしないと悶絶するばかりの私の心の中…
どうにもならないものを、どうにかしようとするばかり。
わかるはずもないことを、わかりたくて。
もう、疲れちゃって、嫌になっちゃって。
「はい…はい…はい…」
…「今、なに考えてる?」
「…。ああ、もういいやって投げやりな気持ちで、上の空で聞いてました」。やけくそになって正直に答えました。
「ほら、それが逃げでしょう」
「……。
ああ、そういうことですか。確かに、逃げてますね。今まで、いつも「逃げてる」って言われても、そんなことないのにって意味がわかりませんでした。そうですね。もう嫌になると終わりにしたいんですね。だから、「はいわかりました」とか「はい考えておきます」とか言って先送りにして、終わりにしたいんですね…。」ほとほと、自分に呆れたものです。

今では忘れられないいい想い出です。

以前の私なら、その言葉を見て、
ああ背を向けているから助からないんだなぁなんて思ったかも知れません。

向かうんだ、遭うんだ、辛くても逃げずに頑張るんだ、
地獄に行きたくなかったら、頑張って聞いて、たくさん人を誘うんだ、
って、違いますよね。

背を向けているから助からないんじゃありません。
逃げているから助からないんじゃない。
背を向けていることに気付いたのが助かったのでもない。

この、背を向けている、背を向け続けている私を、、、

どこまでも深いお慈悲でございました。

泣けてしまって困ったりしませんか

何年か前のこと。
仏教の学校のスクーリングで、ある先生がいました。
夏の時期で、先生方は濃いグレーの透けるような素材の袈裟を着ていらっしゃいましたが、その中に若い先生がいて、おそらく、先生方の中では一番若くて新米なのでしょう、何かある度、雑用から司会など忙しく動き回っていました。

その先生の授業があり、表題は忘れてしまいましたが、クラスで何かテーマについて話し合うというようなものだったのですが、その先生はお話をされ始めて…たしかに自分の親世代の受講生を仕切って話し合いをするのも大変だしな…と思いながら聞いていました。それはそれで有り難いものですし。

何でも、それまでは全く縁もなかったのが知り合ったのがお寺さんの娘さんで、ご結婚を機にお寺に入り、現在のようになられたとのこと。
6年目と聞いて、いや~まだ6年目なのに学校も出られてあんなにいそいそとお仕事一生懸命にされて、ご立派だなーと感心いたしました。

それで、阿弥陀様のお話をとつとつとされていって…
でも、私の心の中にはどこかに、まだたった6年目なんだ、、、という気持ちがあったのでしょうね。
そんな気持ちで、聞いていて、阿弥陀様のお話…何も、お互い感情が高ぶったようなこともなく、煽るような話し方でも内容でもなく、とうとうと、淡々とされていた阿弥陀様のお話…

いつしかぽろぽろと涙が出てきてしまって、もちろんその先生に対してではなく、阿弥陀様のお慈悲に…自分でもびっくしました。そしてまだ6年目で…などと思ったことを恥じました。

「今」を突き詰める

ある人が私に、「私はまだ・ ・お浄土に行けるとは信じられないんだけどね」と言いました。

ああ信じられるようになれると思っているんだな・・と思いました。

今は「まだ」信じられないけど、「いつか」「きっと」信じられるようになれる時が、瞬間が、来るに違いないと思っているのでしょう。

信じる心のない私は、信じられるようにはなりません。

今信じられないものが、いつか信じられるようなものになるというのでしょうか。

信じられない今の私を突き詰めて、なんまんだぶと聞くのでしょう。


母の声


母の葬儀の翌日、お礼の参詣をした帰り、車の中で母の声がした。

といっても、奇跡体験のような話ではなくて、要するに単に母の声を思い出した、という話。

母が完全に言葉を失ってからというもの、なぜかどうしても、母の声を思い出すことができなかった。

母にとっても、私にとっても辛くて残酷なその現実を、心のどこかで私は受けいれられなかったのだろう。

だけど、母はこの世の煩わしさから解放されて、お浄土に還ったんだなという安心感が、母の声をよみがえらせたのだと思った。

やっぱりお念仏はありがたいです。

拝む掌の中に

母は10年前から病気でした。

憎むべきは病気であろうに、私はそのあまりに残酷な病気を家族として受けいれ難い気持ちもあって、さして抵抗しようともしない母を憎みました。周りを見渡せば、娘に子どもが生まれれば、あれこれと手伝ってくれたり、面倒をみてくれたりするものなのに、そういうこともほとんどなかったのです。母は元々、家族に対しても、よく言えば無干渉、悪く言えば無関心なところがあったので、もしかすると病気でなくてもそうだったのかも知れません。

やがて私のこともわからなくなり、私の母としての母は、死んだと思いました。だって、母が母たる所以は、母として娘として、共有してきたものがあるからこそです。それがなくなってしまったのですから。

それでも母は生きました。家の面倒なことや苦労は全部引き受けて、一人で頑張ってきた母が、最後は全部父にやってもらっているなんて、人生は帳尻が合うようにできているのかななんて思ったりもしました。

死んだと思った母ですが、病気になっても父に愛されて家族に見守られた母として生きました。そういう生き方もあるんだと、つい最近になって思い至りました。

そして今、またお浄土からかえってきて、いつでも常に護ってくれています。
どなたか仰っていた、『人は去っても 拝む掌(て)の中に かえってくる』
本当ですね。
ありがたいです。

なもあみだぶつ

信心決定ということ

信心決定という言葉の響きからして、何か“決定的”なことがあるように思ってしまうものですが。

“何もない”ということを知ったのが、信心決定と言えるかも知れません。

だから、人が信心決定しているかどうかなんていうことは、わからないのです。

どんな、おかしなことを言っている人でも──それが明らかに間違ったことであっても──それだからといって信心決定しているとか、していないとか、何人にも判別はできないのです。

だからある意味、判別できないとわかったのが、──わかったのが、と言うと、また何かわかったという事が信心決定だと思われてしまうので、わからされているのが、と言ったほうがいいでしょうか──信心決定だとも言えるのかも知れませんね。

自分が信心決定などできない者と知らされているのが、信心決定とも言えるでしょうね。ある意味。

結局、何もないのですから、どうとでも言えるし、どう言っても間違いなのですから、そこに騙されてしまうのでしょうね。

死を受け容れるということ

母の病気に際して実感したこと。

医学の進歩によって、患者やその家族には、いろいろな選択肢が与えられるようになった。
しかしそれは同時に、選択を迫られるということでもある。

症状の変化に伴って、こういう方法もありますがどうされますか、と医師から尋ねられる。
内容について詳しく説明してもらった後、すぐに決めていただかなくてもいいですから、ご家族で話し合ってください…ということが、何度もある。

いわゆる、延命措置といわれるもの。

問答無用ですこしでも長く生かせたほうがいい、という倫理観がある一方で、果たしてそれでも生きていると言えるのか?という疑問。

それとは別に、身内の生死に直面する家族の感情というものが、、、どういうものなのか、、、こんな気持ちが生まれるんだ、、、と身に沁みて実感した。

患者本人の意志とはまた別に、家族としての、身内に今死なれたくない、身内の死に遭いたくない、それはなるべく先延ばしにしたいという感情があることを。
自分の死ももちろんそうだけれども、人の死を受け入れるということもまた難しいのだ。家族なら尚更。
だから、一分一秒でも命は長らえるべきだという価値観を隠れ蓑にして、あらゆる手段を使ってでも先送りにしたいんだ。

自分の死に対してだけじゃなく、人の死に対しても弱い。人間は。
考えてみれば当たり前のことだけど。

でも、またそこから一歩想いが生まれた。
その人の死を受けいれることもひっくるめて、その人自身を受け入れることなのではないのか、と。
死ぬということも含めて、その人の人生ではないのかと。

そう受け止められるような強さを私が得たということではなくて、弱さを抱えたまま、弱さも認めることができるから。
だから、延命がいいとか悪いとか、むしろ単純には言えないと前よりも感じている。
弱いのが人間。迷うのが人間。人間って悲しいけど、だから人間なんだね。

死が忌み嫌うだけの存在でしかなかった頃の私には、思い至らなかったことだと思う。

死ぬと同時に、生まれるという世界がある。その中に私はいる。すべての人が入っていく。
寂しいけれど、さよならじゃない。

つくづく。有り難い。

勝手に助けてくれればいいのにと撥ねつける私

聞法精進しますとか、○○に努めますとか言葉を濁してみても、詰まるところ「信心獲得するために頑張るぞ!」ということにほかならなかった訳で、一体この私の、どこをどうどれだけ頑張ったら、地獄行きでない身になれるのか。なれないよ、だから助けるよまかせなさいのお慈悲を、疑って否定する、まだ信心頂けていないから努力しますなんてどの口が言えたのか、ただ恥ずかしい私です。

素晴らしい先生方の言葉をとおして、阿弥陀さまの不思議にお念仏させていただいています。その為古本を集めるのが趣味のようになっておりますが、加茂先生の本がいつの間にか高騰しているのに驚きました。以前は高くても千円くらいだったのになあと、これも需要と供給の経済の仕組みによるものと感慨深いものがございます。とはいえ、お念仏がお助けくださることは、本の有る無しやその価値にはすこしも左右されないのですけれども。

最近出会った、大峯顯教授の著作ですが、よく聞く使い慣らされた言葉とはまた違った言葉遣いが新鮮で、ハッとさせられたり、ドキドキするような嬉しさを感じさせていただいています。

われわれは救われるから救われるんじゃないんです。
われわれはどこまでも救われ難い凡夫です。
本願を信じたからといって凡夫でなくなるわけじゃありません。
われわれはどこまで罪悪深重の凡夫であって、地獄にしか行きようがない。
その凡夫の私を救おうというのが、如来さまの本願です。

昨日までは救われなかったけれど、今日は阿弥陀さまにお遇いしたから救われるようになったということじゃありません。


妙好人の浅原才市は、
助かるとはそりゃ無理よ
助けてあることのなむあみだぶつ。(楠恭著『妙好人随聞』二四四頁)
と詠っています。

どこまでも救われ難い煩悩の凡夫のままで救われるのだということです。
ご法話でよくよく聞かなければならないのは、実にこの一点ですね。
昔のお坊さんは実に面白い表現をしています。

「私は救われるんでしょうか」「救われないのよ」。
「救われないんでしょうか」「救われるのよ」。
どっちですか、もっとはっきり言ってくださいと言いたいところでしょうが、人間の分別的言語の論理に合わせてはっきりさせたところで、救われるわけじゃありません。

だから、「救われるのか」と聞けば、「救われない」と答え、「救われないのか」と問えば、「救われる」と答える。
真実はこれ以外に言いようがないのです。
お念仏の人には、この真実がよくわかるのです。
(大峯顯『歴史の底から 正像末和讃を読む 上』八一頁



「明日救われるかも知れない」じゃありませんでしたね。
そんな考えのままでいたら「明日救われるかも知れないからその為に頑張ろう」となって、疑い撥ねつけていることにも気付かないままだったろうと思います。不思議です。

「助けてあることのなむあみだぶつ」


一縷の望みもない

「私は助からないかも知れない」

というのは、まだ私に一縷の望みがあるのです。

私は助からない。

一縷の望みも無いから、阿弥陀さまがいらっしゃる。





楽しい読書

お友達からのご縁で、大峯顕師の著作を読ませていただいております。

いやあ、これが。大変よいご縁でありました。

実は、氏の別の著作は読んだことがあったのですが、どちらかというと哲学的なお話だったので、当時はよくわからなくて(今読んだらまた違うかも知れませんが)、それ以来でした。

新鮮で、また違った感動と共に、阿弥陀さまの有り難さを味わわせていただいております。

また感想など書きたいと思います。



毎日、少しずつ読む楽しみをいただいております。

以前に主人が、本を買っても一気に読んでしまうと楽しみが終わってしまうから、あえて少しずつ読むと言っていたのが、ああこういうことかと最近になってわかるようになりました。

今まで、私にとって本というものは勉学やその他必要に迫られて読まなければならないというものばかりだったせいかも知れません。

思えば、今までいつも義務感や強迫観念のようなものばかりに追い立てられていた私の人生、、、


阿弥陀さまありがとうございます。

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